フランスの優勝で幕を閉じたFIFAワールドカップ・ロシア大会。その1カ月ほど前、「もう一つのワールドカップ」と呼ばれるサッカーの国際大会がロンドンで開かれたことをご存じだろうか。ConIFA(独立サッカー連盟)が主催する「ワールドフットボールカップ」だ。出場したのは、少数民族や未承認国家、FIFAに加盟できない小国などの代表チーム。「自分たちはここにいる」の思いをボールに託した。(ノンフィクションライター・木村元彦/Yahoo!ニュース 特集編集部)
(文中敬称略)
「国」がなくても参加できる
2018年5月31日、イギリスらしい曇天の中、なんとも牧歌的な開会式が始まった。
ロンドン南東部、ブロムリーFCの本拠地ヘイズ・レーン・スタジアム。収容人数は公称5000人だが、果たしてそこまで入るかどうか。ブロムリーFCはイングランド5部、日本で言えばアマチュア2部に相当するリーグに所属するクラブである。
行われているのは、ConIFA(独立サッカー連盟)が主催する「ワールドフットボールカップ」第3回大会の開会式だった。
派手な演出はない。出場16チームが選手旗を持ってピッチ上を行進するのみである。それでも、選手たちの表情のなんと誇らしげなことか。
「人生で初めて、自分本来の姿を隠すことなく、ここで見せられる。こんなにうれしいことはないよ」と言うのは、「チベット」代表の右サイドバック、ゲレク(29)である。
チベット人のゲレクは2000年、中国政府の弾圧から逃れ、インドのダラムサラに両親とともに亡命した。プロサッカー選手としてインドのリーグでプレーをしていたが、インド国籍を取得できず、難民という不安定な地位のままだった。
「自分は中国人でもインド人でもなく、紛れもないチベット人だが、その属性でワールドカップに出場することはできなかった。でもこのConIFAで夢をかなえることができた」
ConIFAワールドフットボールカップが「もう一つのワールドカップ」と呼ばれる理由は、ここにある。
「サッカーがなければ悪の道に入っていたかもしれない」
FIFAが主催する「ワールドカップ」は国別対抗戦であり、選手の所持するパスポートによって所属が決まる。
しかし世界には、パスポートを持てない人々や、パスポートと自らのアイデンティティーが必ずしも合致しない人々が存在する。弾圧によって故国を追われた人々、固有の領土を持たない民族、近代国家建設の過程で社会の隅に追いやられてしまった先住民族や少数民族などがそうである。
生まれ育った国や地域がFIFAに加盟していないために、ワールドカップへの道が初めから絶たれてしまっている人々もいる。
ConIFAは、そういった人々にサッカーをする機会を与えるためにつくられた。発足は2013年9月。スウェーデン人のペール=アンデルス・ブリンド(52)によって創立された。
ブリンドは、国籍はスウェーデンだが、アイデンティティーは先住民族のサーミ人である。
サーミ人は古くから、スカンジナビア半島の北部、現在のノルウェーからスウェーデン、フィンランド、ロシア北部にまたがる地域で暮らしてきた。伝統的なサーミの暮らしは、トナカイの飼育や狩猟・採集である。13世紀ごろから、北方ゲルマン民族のスウェーデン人が支配を強め、サーミ人は差別的な扱いを受けた。
ブリンドも、幼いころから凄絶ないじめに遭ったという。
「私はただサーミ人であるということで石を投げられ、殴られた。それを救ってくれたのがサッカーだった。サッカーがなければ私は悪の道に入るしかなかったかもしれない。サッカーには分断された者、憎しみ合っている者に魔法をかけて、これをつなげる力があると確信したのだ」
「ワールドフットボールカップ」の第1回大会は、2014年、スウェーデン中部の都市エステルスンドで開催された。ブリンドは大会の理念を練り上げ、参加・加盟チームを募り、自らもサーミ代表を組織して、地元行政に働き掛けてスタジアムを確保した。2016年の第2回大会は、旧ソ連のグルジア(現ジョージア)から独立を宣言したアブハジアで行われた。
そして今年、第3回大会がロンドンで開催されたのである。
多士済々の16チーム
開会式に戻ろう。登場した16チームはまさに多士済々であった。
「バラワ」は、ソマリア内戦でイギリスへ逃れてきたソマリ人のチームである。南部の港町バラワ出身者が多く、町の名をとってチーム名とした。今大会のホストチームでもある。ミッドフィールダーのアイーブは移民2世で、イギリス国籍を持つ。「私たちがなぜイギリスに住んでいるのか、その経緯を『バラワ』というチーム名で出場することで、ロンドンの人たちに理解してもらいたい」と話す。
「チベット」代表は、前出のゲレクが先頭で、民族の旗・雪山獅子旗を掲げて登場した。チベット自治区の人々は、中国政府によって自由な移動を禁じられている。そのため代表チームは、インドから15人、カナダから2人、アメリカから2人、イギリスから2人、ドイツから1人で編成された。会長のパッサン・ドルジは「世界の外に置かれていたわれわれが一つに集まったことが何よりの収穫」と言う。
「マタベレランド」は、ジンバブエ南西の少数民族マタベレ人(ンデベレ人とも言う)の代表である。貧困の中、クラウドファンディングで渡航費を集めた。マオリ族の民族舞踊「ハカ」はラグビーのニュージーランド代表がパフォーマンスすることで有名だが、彼らはマタベレ版のハカとも言える伝統の歌と踊りを披露して開会式を盛り上げた。
「ツバル」は、南太平洋の島国である。人口1万1000人。サッカーは人気のあるスポーツで国内リーグもあるが、小国ゆえFIFAへの加盟が認められておらず、ConIFAに加盟した。オセアニアらしく、ほとんどの選手がラグビーを兼務していて、足技はないもののたくましい上体を生かした激しいショルダーチャージが得意である。
他に、ヨーロッパや中東、北アメリカのチームも参加した。
唯一のFIFA W杯出場経験選手
各チームとも、普段からクラブチームに所属している選手が多い。「ツバル」や「北キプロス」には自前のリーグがあるし、北イタリアのチームである「パダニア」代表にはイタリアのリーグでプレーする選手も多い。とはいえ4部、5部。世界のトップレベルとは言いがたい。
その中で唯一、FIFAワールドカップ出場経験のある選手がいた。在日コリアン代表チーム「ユナイテッド・コリアンズ・イン・ジャパン」(UKJ)の監督兼選手、アン・ヨンハ(39)である。
Jリーグのアルビレックス新潟や名古屋グランパスでも活躍したヨンハは、在日コリアン3世である。2010年のFIFAワールドカップ南アフリカ大会に北朝鮮代表として出場した。
ヨンハのもとには、BBCやガーディアン紙など多くのイギリスメディアが取材に訪れた。彼はそのたびに参加の理由をこう答える。「もちろん最も大きな大会であるワールドカップに出場したことには誇りを感じましたが、ワールドフットボールカップは、自分のアインデンティティーにとって重要な大会ということで、出場を決めました」
在日コリアンについては、記者から聞かれるたび、ことさら丁寧に説明していた。「UKJ」の選手たちはみな、朝鮮半島にルーツを持っていること。国籍は、朝鮮籍(朝鮮籍は北朝鮮国籍ではないが、北朝鮮のパスポートを保持できる)、韓国籍、日本国籍と三つに分かれていること。
それは、国家を単位としないというConIFAの理念にも通じるものであった。
チームのフォワード、ピョン・ヨンジャンはこう言っている。「日本で生まれ育ち、民族教育を受け、国籍は韓国という自分が一番なりたかったのは、日本代表でも韓国代表でも北朝鮮代表でもなく、『在日コリアン』代表でした」
ConIFAには現在、46のサッカー協会が加盟している。ワールドフットボールカップの予選制度は複雑で、ホストチームと前回優勝チームに参加資格が与えられ、残りの枠を6つの大陸予選のポイント制で争う。ConIFA実行委員会の「ワイルドカード」枠も設けられている。
出場16チームは、4チームずつ4ブロックに分かれ、予選リーグ3試合を行う。各ブロック上位2チームが決勝トーナメントに出場する。
大会2日目、グループDの「UKJ」は「カビリア」代表と対戦した。
「カビリア」代表が背負うアルジェリアの「歴史」
「カビリア」は、北アフリカの国アルジェリアの北東部、地中海沿岸の山岳地帯の名称である。アルジェリアではアラブ人が多数を占めるが、カビリア地方には古くからベルベル人と呼ばれた先住民が暮らしてきた。その人たちの代表が「カビリア」である。
「カビリア」は、サッカー界で一目置かれている。アルジェリア系フランス人として知られる元フランス代表のジネディーヌ・ジダンは、カビリアにルーツを持っている。スペインのレアル・マドリーで活躍するカリム・ベンゼマ、イングランド1部のプレミアリーグで活躍したサミル・ナスリもそう。UEFAチャンピオンズリーグでゴールを決めたことのある選手を3人も輩出しているのだ。
しかし、「UKJ」との試合は0対0の引き分け。グループリーグの他の2試合も、対「パンジャーブ」戦は0対8、対「西アルメニア」戦は0対4で、いずれも敗れた。戦いぶりを見ると、寄せ集め感は否めなかった。
アルジェリア本土からの選手招集が困難だったために、在外のアマチュア選手が中心となってしまったからだった。ロンドン在住の「カビリア」サポーター、イズヒルは悔しさを隠さずに言った。
「アルジェリアにモブベヤヤ(MO Béjaïa)というカビリアのクラブがある。そこから選手を呼べたらもっと戦えたはずだが」
そもそもベルベル人は、アラビア語を話すアラブ人とは別の、固有の文化を持っている。彼らはタマジクト語という言語を使う。アルジェリアが独立戦争を経てフランスから独立を果たしたのは1962年。以降、アルジェリア政府は少数民族に対しても公用語としてアラビア語を強要するなどの同化政策をとった。これに対してカビリアの人々は自由を求める運動を繰り広げてきた。
2001年には、カビリア地方のある町で、10代の少年が警官に射殺されたことから大規模な抗議行動に発展、治安部隊が武力で制圧する事件も起きている。
当然、アルジェリア国内でカビリアの旗を掲揚することは禁止されている。
今回「カビリア」代表がConIFAワールドフットボールカップに出場することが判明すると、出国を前に、警官が選手に何度も同行を求め、詰問を繰り返したという。「お前たちはロンドンでベルベルの旗を振るのか?」と。
結局、何人かの主力メンバーは出国を認められなかった。
「カビリア」の応援に駆けつけたマフィーム(66)は、1978年に祖国アルジェリアを離れた。現在はドイツ・フランクフルトで暮らす。
「アルジェリアがフランスから独立するために、われわれの祖先がどれだけ血を流したか、アルジェリア人は忘れてしまっている」
1954年に始まった独立戦争で、ベルベル人などの少数民族は主要な戦力だった。「今、カビリアはアルジェリアのコロニー(植民地)にされてしまっている」とマフィームは言う。
独立戦争の際、フランス軍がアルジェリア人に対して行った非人道的な行為は、1966年公開の映画「アルジェの戦い」に描かれている。この作品はヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。
一方で、アルジェリア政府がカビリアの人々に行ってきた弾圧はあまり知られていない。「カビリア」代表が最強チームを構成できるか否か。それはアルジェリアの民主化のひとつの尺度と言える。
代表チームはそれぞれの民族の歴史的、政治的な背景を背負っているが、ConIFAは大会での政治的な活動を禁止している。サシャ・デュエルコップ事務局長はこう言う。
「チームのアピールは、アンセムを歌う、旗を掲げる、そこまでだ。あとはサッカーをする」
「チベット」代表は「フリーチベット(チベットに自由を)」の横断幕を掲げなかった。「カビリア」も旗は掲げても「独立」などの政治的な主張を行わなかった。アイデンティティーの発露は、新たなナショナリズムを生む危険と背中合わせである。
全チームが表彰台に立つ
2敗1分けの「カビリア」と、3引き分けの「UKJ」は、いずれもグループリーグを勝ち抜けず、グループDからは「パンジャーブ」と「西アルメニア」が決勝トーナメントに進出した。
グループリーグで敗退した8チームもここで終わりではない。順位決定戦をさらに3試合、戦う。決勝トーナメントに進出した8チームも同様だ。ConIFAワールドフットボールカップでは16位まで順位を決める。そして、閉会式では、全てのチームが表彰台に上がるのだ。
大会6日目、最終日。決勝に駒を進めたのは、キプロス島北部の未承認国家「北キプロス」代表と、ウクライナ西部で暮らすハンガリー人のチーム「カルパタリヤ」であった。
「北キプロス」は力強く長いボールでゴールに迫る。「カルパタリヤ」は丁寧につないで攻撃を組み立てる。スタイルにおいては対照的なチームであったが、実力は拮抗していた。
どちらもゴールを決められず、スコアは0対0。最後はPK戦で「カルパタリヤ」が勝利した。
熱戦の余韻が冷めやらぬ中、閉会式へと移る。16チーム全てが表彰台に上がり、カップを掲げる。
11位・12位決定戦で「チベット」に勝利した「UKJ」の選手たちも表彰台に上がった。表彰式が終わり、日が暮れて雨が降ってきた。それでも、数人の選手たちが、立ち去りがたそうにボールを蹴り合っていた。
2年後に向けた期待と課題
第4回大会は2年後だ。大会運営には課題も残る。
一つは、政治的な問題でビザが発給されるかどうかが不確定なため、選手登録がギリギリ、もしくは間に合わないチームが出ること。
もう一つは、強化のためにチームのアイデンティティーと関係ない助っ人を登録する動きがあっても、代表資格は各協会の判断に任せているために、大会事務局が厳しくチェックできない点である。実は今大会中、某代表にそういった指摘がなされた。パスポート主義をとらないことの難しさである。
いずれもスポーツの公平性や信頼関係に関わる重大な課題だ。
とは言え、ConIFAの存在を知ったさまざまな地域や民族から、「ConIFAに参加したい」という声が上がっている。
例えば、ミャンマーのイスラム系少数民族ロヒンギャである。彼らはミャンマー西部ラカイン州で暮らしてきたが、1990年代から激しい迫害にあい、100万人以上が国外に流出した。
1982年に制定されたビルマ市民権法でいきなり無国籍にされてしまったロヒンギャの人々は、ミャンマー国内では公的な仕事に就くことができない。サッカー界でも、かつては代表に選手を送り出していたが、資格を失った。
2015年、多くのロヒンギャ難民が暮らすマレーシアで、ロヒンギャサッカー協会が創設された。チェアマンのムハンメド・ノアー(34)は言う。
「ConIFAこそ、私たちのための大会だと思った。カナダやオーストラリアでプレーしている選手にも声を掛けて、ぜひ2020年にマレーシアで開催したい」
他にも、西サハラ、琉球などが加盟を済ませている。2020年に注目すべき国際大会は、東京オリンピックだけではない。
木村元彦(きむら・ゆきひこ)
1962年愛知県生まれ。中央大学卒。ノンフィクションライター。東欧やアジアの民族問題を中心に取材、執筆活動を続ける。著書に『オシムの言葉』『蹴る群れ』『徳は孤ならず』など。