「先祖様が伝えてきたことを、忘れられんうちに後世にしっかり伝えんといかん。今はそう思っとります」。「かくれキリシタン」の信徒は、長崎県に400人ほどいるという。江戸幕府の禁教令により「潜伏」せざるを得なかった信徒たちは、仏教や神道を隠れ蓑にしながら、信仰を守り抜いてきた。禁教が解かれた明治以降も続いた独特の風習が注目を集めるが、実際に信仰を守っているのはどんな人たちなのか。平戸島と生月(いきつき)島を取材した。(写真・文 田川基成/Yahoo!ニュース 特集編集部)
平戸島最後のかくれキリシタン
「私は、先祖さまが命をかけて守ってきた信仰を、捨てるべきでないと思とったけど。続けてほしいとも言えん、やめるとも言えん。後継者がおらんならしょうがないという感じだったね」
瀧山直視さん(68)は、長崎県平戸市・根獅子(ねしこ)町のかくれキリシタン信仰組織の、最後の役職を務めた一人だった。400年以上続いた根獅子での組織的な信仰が幕を閉じたのは1992年のことだった。
九州本土との海峡にかかる橋を渡り、平戸島の西側へと向かう。車で半時間ほど走って峠を越え、海岸へ下った先に根獅子の集落はある。複雑に入り組んだ湾のへりに、180戸、約460人が暮らす。
平戸は、古くから貿易拠点として栄えてきた島だ。1550年、ポルトガル船が初めて平戸に入港。前年に鹿児島に上陸していたフランシスコ・ザビエル一行はそれを聞いて平戸を訪れ、布教を行った。
平戸藩主・松浦氏の有力な家臣が、洗礼を受けてキリシタンとなった。日本で初めてとなる領民の一斉改宗も行われた。ヨーロッパからきた宣教師が活動し、教会堂や十字架が次々とつくられた。
一方で、改宗の際に仏像を燃やすなど、信徒による過激な行為もあった。そのため藩主・松浦氏はキリスト教から距離を置いた。そして1599年、キリシタンの家臣が仏式葬儀に参加を拒否し、長崎へ退去したことを機に、禁教へと舵を切る。
平戸藩では全国に15年ほど先がけて、キリシタン住民と宣教師たちの弾圧と処刑が始まった。
禁教期にも信仰を続けた信徒を、一般に「潜伏キリシタン」と呼ぶ。
禁教が解けた明治初期、潜伏キリシタンの多くは、ヨーロッパから再び長崎を訪れた神父に導かれてカトリック教会に復帰した。しかし、根獅子の信徒はカトリックへの復帰を選ばなかった。瀧山さんはこう話す。
「先祖は、仏教徒や神社の氏子であることを隠れ蓑にしておりました。集落の家では、玄関を上がるとまず仏壇があって、その横に棚ん神様というキリシタンの御神体を隠しとった。そうして、外にばれんよう密かに行事を続けました。(禁教が解けたあと)根獅子にも神父さまが来とったようですが、先祖は復帰を選ばんかった。カトリックに戻ったら、代々守ってきた行事を止めて、キリシタンのご神体を捨てんといかん。それはできんかったとですね」
先祖は、土着の信仰や風習と共存しながら伝えられてきた独自のキリシタン信仰を守り続けた。こうした信徒が「かくれキリシタン」と呼ばれているのだ。
宗教行事を取り仕切る「水の役」
根獅子のかくれキリシタン組織で宗教行事を取り仕切っていたのが、「水の役」と呼ばれる役職者。町内4地区に7人の役がいて、それぞれ二十数軒の家庭を担当した。
瀧山さんが水の役を任されたのは1982年のこと。中学を卒業後に東京の建設会社に集団就職し、10年ほど働いて帰郷。根獅子の女性と結婚し、数年が経った頃だった。瀧山さんは振り返る。
「正月のお祓いや春の豊作祈願、殉教者の命日、葬儀後の屋祓いなどですね。私たち水の役がオラショを唱えました。昔は洗礼もあったようですが、私の世代ではもうせんかった」
「オラショ」とは信仰において唱える祈りのことだ。もとはラテン語で祈りを意味する oratio (オラシオ)が変化したとされる。オラショの習得は最も重要な役目だった。
「1番から13番までと、14番が葬式で唱える死人のオラショ。大きな声に出してはいかんもんで、本来は口承でしたが、私の師匠は便箋に書いてくれよった。運転をしながら、風呂に入りながら、ぶつぶつと唱えて半年くらいで覚えたとです」
アメマリヤ ガーラス サーベンナノーベスベコ
キリヤレンゾ キリリンズ ヌーステンバス
土地の言葉とは明らかに異質の単語が繰り返される。瀧山さんは幼少期の記憶をこう話す。
「年末の寒い時分、クリスマスの時季やったと思う。母が棚ん神様に赤飯をお供えして、近所のじいさんが囲炉裏端でぶつぶつ、ぶつぶつ、何かを唱えよったんです。あれがはじめて聞いたオラショやったとでしょう」
神聖な存在である水の役は、穢れを避けることが求められた。年末には自宅の座敷で一人きりになって寝る決まりだったという。
「正月は神様になりきると言われておって。不浄なものには一切かかわらん。我が子に触れることもできんかった。若い30代の頃ですよ。ネギ、肉、卵は食べるなと。昼間は仕事ですが、田んぼに牛糞を撒くわけにもいかんかった」
元旦に「聖水」を汲みに出掛けていたという場所へ案内してもらった。昔、教会が立っていたという丘の森の中に、湧き水があった。
「4時半くらいに起きてね。熱い風呂に入り、水をかぶって身体を清めて。和服に下駄で、薮に入って。聖水1年分を2合くらいの小瓶に入れて、棚ん神様に置いておりました。行事のあるごとに、人や物なんかに振りかけて使いよったと」
元旦の聖水汲みから戻ると、担当する地区の家々を2日がかりで回り、お祓いをするのが習わしだった。
「まずは辻家というキリシタンの元締めの家に集まり、半日ばかりオラショば唱えるとです。途中でわざと世間話をして、カムフラージュするとですよ。長い時で4、5時間唱えたこともある」
おかげで今は膝が痛くて、と瀧山さんは笑う。
森を出て白い砂浜の広がる海岸へ下りる。300メートルほど歩いたところで、瀧山さんは道を折れ、別の森へ向かった。そこには小さな石造りの祠があった。真新しい花が供えられていた。
「昔、キリシタンの夫婦と三姉妹が住む家に、ある日外から男が来た。男はよう働いたけん、長女の婿にすることになった。長女は身ごもって、ついに信仰を打ち明けたと。そしたら男はおらんようになって、次の日に役人が現れた。家族はキリシタンは自分たちだけだと言って、お腹の赤子も一緒に集落の身代わりになって処刑されたとです」
「おろくにん様」と呼ばれるその家族の命日は、旧暦の8月26日。水の役と大勢の信徒で、お参りを欠かさなかったという。
「昔は夜暗くなってから、家族が埋められた森に入りました。そして祠の前に、黒豆を表に三つ、裏に二つ入れたおむすび5個を供えよったですね」
後継者がみつからなくて
水の役の任期は、ひとり14年。農作業や家庭の仕事をこなしながら役を続けるのは容易なことでなかった。家族の負担も大きかった。
瀧山さんが水の役に就いた1982年以降、他の6人は任期を終えた順に一人、また一人と引退した。しかし瀧山さんを最後に、新たに役を任せる人物が見つかることはなかった。
「以前は、誰も断らんかったとですけどね。昔はこの信仰を外に知らしめないために、根獅子同士の結婚がほとんど。閉鎖的なところだから最後まで続いた面もあって。私の上の世代、昭和の後半からですかね、外からも嫁さんや婿をもらうようになって、意識が変わっていったとですね」
仏教や神道の行事の負担も大きかった。
「初めは隠れ蓑だったと思いますが、いつの間にか、仏教と神道の行事もしっかりするようになって。今はみんなお寺にも、神社にも行きますけん。若者がだんだん減って、キリシタンの行事を続けるのが負担になってきたとでしょう」
そして1992年1月の根獅子町民集会で、キリシタンの行事を継続しないことが全会一致で決定された。同年4月29日、信仰の組を代々束ねてきた辻家に、残った3人の水の役が集まり、最後のオラショが唱えられた。そうして、根獅子の組織的なかくれキリシタン信仰は幕を閉じた。
キリシタンの行事をやめても、根獅子の人たちの心の隅には信仰があると瀧山さんは言う。
「集落の人は今でも、八幡神社で初詣をしたあと、森に入っておろくにん様に手を合わせるとです。先祖様が伝えてきたこと、根獅子の人がしてきた信仰のことを、忘れられんうちに後世にしっかり伝えんといかん。今はそう思っとります」
住民の8割がかくれキリシタンだった島
生月島は、平戸島のさらに北西に浮かぶ離島だ。約5500人が暮らす。今もかくれキリシタンの信仰が残る。
立石延久さん(63)は、生月島の北部・壱部(いちぶ)集落に住む、信徒の一人だ。民宿を営む妻と、二人で暮らす。かくれキリシタンとして好奇の目にさらされるのは本意でないと言いつつも、話を聞かせてくれた。
「5歳の頃やったかな、和服ば着せられて、ヘコ親ばつけてもろうて、聖水を頭に頂いてお授けば受けました。洗礼名はドメゴスちゃ言います」
生月町の博物館・島の館で、25年にわたってかくれキリシタンの信仰の調査を続ける学芸員・中園成生氏(55)は、現在、長崎県内で信仰に関わる人数は400人ほどと推計する。
「うち約300人が生月にいて、最大の信仰地域になっています。1953年の調査によると、当時の島の人口約1万1000人のうち、8割がかくれキリシタン信仰に関わっていたようです」
壱部集落では、もとは複数の役職者がいて、様々な信仰行事を取り仕切っていた。しかし行事の簡素化が進み、今は親父(おやじ)と呼ばれる役の男性だけが、自宅に祀る御神体にオラショを唱えている。役職についていない信徒が行事に関わるのは、同じ信徒の葬儀などだけだ。
立石さんはこう振り返る。
「子どもん頃はもっと盛んで、年始から年末まで、日曜ごとに行事があったとば覚えとる。例えば正月には、家のお祓いばしてもろうて、そいからワラ半紙で作ったオマブリちゅう、魔除けの十字架ば飲み込まされよったな」
立石さんは中学を卒業すると、まき網漁船に乗った。ひと月のうち25日間は東シナ海に出て連続操業し、5日間だけ生月島に戻る生活だった。
「対馬やチェジュ(済州)島、上海沖から台湾まで、どこまでっちゃ船で行った。何度も危ない目に遭うて、海中で絡んだロープば解こうとして潮に流されそうになったこともある。海が荒れた時は、いつも神様にお祈りしよったと」
今は船を引退し、自営で半農半漁の生活を送っている。
生月島の商店街を歩くと空き店舗が多く、老人の姿が目立つ。しかし昔は若者で溢れかえっていたという。
「生月の海は、イワシからクジラまで、昔はそれはたくさん獲れたとよ。兄弟3人がまき網船に乗れば1年で家が建つと言うて、それほど稼げる仕事やった。こん島は大きな家が多かやろ?」
仏教、神道と共存する「多信仰」
生月島の東の沖に浮かぶ中江ノ島は、この地域の信徒にとって最高の聖地だ。禁教期、密かに布教をする神父を助けた地元の信徒が、ここで処刑されたという。立石さんはこう話す。
「かくれキリシタンがあん島でオラショば唱えると、岩から聖水が染み出ると。カトリック信者が祈っても出らんとって。神聖な島やけん、おいたち普通のもんが、勝手に上がるのは許されんと。処刑された人の子孫は、まだ生月島におるとよ」
生月島でもキリシタン信仰と、仏教、神道の行事が同時になされている。立石さんの集落では、仏教徒も一緒に暮らしてきた。
「以前は仏教徒のことをカッツと呼んどった。カッツの葬式に行くと、精進でこんにゃくの刺し身が出てきて、物足りんかったと。おいたちキリシタンは、行事んときは生の刺し身と酒がないと始まらんもんでな。今でも、寺の住職とはよく飲むとよ」
前出の中園氏はこう説明する。
「生月・平戸では、キリシタン時代の信仰形態が、禁教期以降、仏教や神道を並存させた『多信仰』の状態でそのまま伝えられてきたのです。当時の宣教師たちは、キリスト教の信仰を日本人の生業と風土に合わせるよう、ある意味、土着化するような形で広めていたのではないかと思います」
地域に伝わる聖水信仰と聖画、オラショの文言や魔除けの慣習。実は中世ヨーロッパの信仰要素を多く残していることが、近年の研究により分かってきた。
「数世紀を経て進化した現在のカトリック教会を通して見ると、それは不思議に映るかもしれません。しかし、そのような中世の信仰形態を、禁教時代を経てまるで凍結保存するように今日まで伝えてきたのが、かくれキリシタンなのです」
「貧困」というステレオタイプ
これまで、「潜伏キリシタンとかくれキリシタン」=弱者というステレオタイプが存在したと、中園氏は指摘する。彼らは厳しい弾圧を受けて離島や僻地に逃れ、貧困の中で信仰を守り抜いてきたと語られてきた。
「しかし、生月島で現在まで信仰を続けることができたのは、経済的なゆとりが背景にあったのではないかと考えています」
生月島は禁教期の江戸時代、日本最大規模の捕鯨基地として栄えた。鯨組「益冨組」が操業した149年間で、獲った鯨の数は2万1790頭。捕鯨が平戸藩の財政を支えていた。明治に入って捕鯨が下火になるとイワシ漁が栄え、そしてまき網漁へと移っていった。
「そうした経済力を背景に、生月・平戸の各集落で仏教、神道と並行してかくれキリシタンの行事を続けることができました。しかし、平成に入って漁業が斜陽になると地域に仕事が減り、過疎化が進みます。私が生月島にきた1993年当時、約20組あった信仰の組は、今は四つになりました。島に残って家を継ぐ若者が減り、信仰を継承する余裕が失われつつあるのです」
かくれキリシタンってどんな方々ですか? 中園氏に質問してみると、こんな言葉が返ってきた。
「ふつうのおじさんたちです」
最後に中園氏はこう付け加えた。
「潜伏時代も、禁教が解けた明治以降も、宣教師によって伝えられた信仰を守り続け、自然の中で力強く生きてきた人々が、かくれキリシタンなのではないでしょうか」
田川基成(たがわ・もとなり)
写真家。1985年生まれ。長崎県西海市の離島出身。北海道大学農学部を卒業後、東京で編集者・業界紙記者を経て2014年に独立。イスラム圏や南米、アジア、欧州などへの旅を通して、移民や宗教、文化の変遷に興味を持つ。長崎の海とキリシタン文化、ムスリム移民家族の「ジャシム一家」や、日本のベトナム難民、北海道などをテーマに撮影している。
[写真]
撮影:田川基成
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝