賢い国民に投資教育は有害だ
投資教育においては、国民の間に投資についての知識が不足しているために、投資信託等による資産形成が普及しないと想定されていますが、それは、飲食店がはやらない理由として、その店の味を美味しいと思わない客の味覚の貧困をあげるのと同じように、おかしなことではないでしょうか。
不味い店に客は来ない
飲食店に客が来ないのは、その店の料理が美味しくないからで、美味しくないのは、客の味覚の貧困が原因なのではなく、料理人の技術が未熟だからであって、その未熟という意味には、単に調理技術の未熟さだけではなく、独りよがりに自分の味を顧客に押し付ける人間的な未熟さも含まれます。
また、多くの場合、店の立地も価格の高さも、はやらない理由になりません。むしろ、美味しいと評判の店は、不便なところにあっても、価格が高くても、繁盛する、これが情報化社会における多様で豊かな消費の実態であり、高くても、不便でも、その不利益を超える価値があれば、売れる、それが商業の基本です。
さて、生活習慣の変化に伴って食生活も変化してきたなかで、海外から新しい食文化が輸入され、また、日本の伝統的な食材にも様々な工夫が加えられて、新しい食べ物と食べ方が創造されてきたわけですが、それらのもののなかには、当初、不味いと評価されたものも少なくないでしょう。しかし、だからといって、こうした食の革新を生んだ人は、国民の味覚がおかしいとは思わなかったはずで、むしろ、不味いと評価されても当然との前提で、辛抱を重ねて、美味しいと評価される日を謙虚に待ち続けたのです。
そもそも、新しい食文化を創造するのは普通の国民なのであって、食の事業に携わる専門家なのではありません。商品の価値は、製造者が創造するものではなく、顧客が消費を通じて創造する、これが商業の基本原理なのですから、料理人の立場から美味しさや顧客の味覚を論じる余地はないのです。
預金は美味しい
金融庁をはじめ、投資教育の重要性を熱心に説く人は、国民が美味しい投資信託よりも不味い預金を選好している実態について、国民の味覚が貧しいからだと考えて、その矯正を教育によって図ろうとしていますが、商業の原則に反した実に奇怪な発想だといわざるを得ません。
国民は投資の知識がないから投資しないとか、金融の知識がないから預金に放置しておくとか、最初から、そう決めつけるのは著しく不適当であって、まずは、国民貯蓄が預金に遍在している事実を前にして、敢えて預金が選択されるには合理的な理由があるはずだとの前提で、様々な角度からの検討がなされるべきです。
例えば、高齢者にとって、余命が長くなるなかで、生活費の不安や、医療や介護に要する費用の不安にとらわれているとき、その貯蓄が預金に滞留するのは、むしろ自然ではないでしょうか。また、投資には様々な目的があり、その重要なものの一つが購買力の保存であるとき、長期におよぶデフレという過去の事実のなかで、預金こそが最適な投資対象だったのではないでしょうか。
投資のゲーム化
生活との関連における資金使途と無関係に、投資教育において、単に投資で資金を増やす努力をしろということは、投資をゲーム化することであって、健全な良識をもつ普通の人には受け入れられないと思われます。ゲーム化された投資は、要は、投機ですから、投資と投機の区別をやかましくいう投資教育の人がやっていることは、実は、投機の推奨になりかねず、しかも、分散投資の理屈とか、インデクス運用の利点とか、技術的なことばかり強調することは、ますますゲームの要素を強くするだけです。
投資教育と関係なく、投機としての投資には既に多くの愛好家がいるわけですが、投機なのですから、投資対象が値上がりすれば売却されるし、損が出ても、多くの場合、売却されます。現に、大幅に値上がりしてきた日本株式を対象とした投資信託は、上がれば上がるほど、解約を誘発しています。この事態を投資教育によって是正しようとすることは、要は、上手に投機しろというようなものです。
こうした状況において、投資信託の業界は、残高の安定的な増加が見込めないために、次々に新しい投資テーマの商品を作り、販売会社に売ってもらうという悪弊から脱却できずにいるのですが、販売会社としては、意図的にしろ、あるいは無自覚にしろ、売れる先を探せば自然と投機の客となり、投機を好む顧客の味覚に適合したものが販売されるわけですから、商業の原則は、それなりに貫徹しているのです。
要は、預金にしろ、投資信託にしろ、顧客の味覚に合っている、即ち、利用目的に適合しているからこそ、存在し得ているということです。
金融庁の政策課題
しかし、金融庁にとって、第一の問題点は、販売会社は事業の拡大を志向せざるを得ないことです。その結果、投機に適合した顧客範囲を超えて販売がなされ、なぜか売れてしまうなかでは、顧客の真の利益に反する事態が生じるために、金融庁は、販売会社側に行動の是正を求めるのと同時に、不味いものを感知できない顧客の味覚についても、投資教育による改善という課題を意識するのです。
第二に、金融庁としては、投資信託が果たすべき金融機能として、投機対象としての存在意義を否定しないとしても、経済政策的には、国民の安定的な資産形成の道具としての本来の機能を強調しなければならず、投資教育の名のもとに、その普及を図る必要があるわけです。
投資には目的がある
機関投資家の投資では、投資資金の使途が明確に決まっています。これは当然のことであって、むしろ、逆に、資金使途の実現のために、機関投資家が存在しているのです。そして、使途があるからこそ、使途の実現のために適切に投資される点において、投資は投機と区別されます。
例えば、企業年金の投資は給付原資を作るために、大学の投資は校舎の建設や奨学金の支給のために、地域金融機関の投資は過剰預金の効率的な管理のためになされていて、使途が明確だからこそ、使途が適切に実現されるように、投資が規律あるものになる、この規律の存在によって、投資は投機から区別されるわけです。
それに対して、個人の投資教育では、当面の使途のない資金だけが投資可能で、具体的に使途のある資金は投資するなというのが通説になっています。これは非常におかしなことであって、よりよく使途を実現する、これが投資の目的であるべきです。こう考えて、初めて預金の問題が理解されます。なぜなら、預金は使途の実現を邪魔しませんが、よりよく実現することもないのです。
この点、さすがに金融庁は優れていて、まずは投機と混同されやすい投資という用語を使わないようにして、資産形成に置き換え、更に、資産形成の重要な目的の一つとして、豊かな老後生活を送るための原資の形成を掲げて、資金使途を明確にしました。そして、よりよく投資されれば、より豊かな老後生活が送れる、こうした発想のもとで、かの有名な2000万円報告書が公表され、政治に悪用されて奇妙な展開になりはしましたが、結果的に、国民に広く知られて、主旨は理解されたのでした。
国民は賢い
投資教育の最大の問題点は、教育という用語の背後に、国民は愚かだという前提が潜むことです。商業において、顧客を教育するという傲慢不遜の発想は絶対にあり得ないのですが、なぜか、投資教育に熱心な人は、それに全く気付いていないようです。逆に、国民は賢いとの前提にたてば、預金と投機は美味しいから人気があり、資産形成のためと称する現にある投資信託は不味いから普及しないという事実認識から発足できます。
そうすれば、仮に投資教育という用語を使うとしても、その課題は、預金を否定することではなく、投資の技術的な解説でもなく、投機を是正することでもなくて、まずは顧客の資金使途を明らかにし、資金使途に適合していて、かつ、よりよく資金使途を実現できる投資対象の選択を支援することだと理解されるはずです。そして、その先に、適切な投資対象がない現実が明らかになって、真に美味しい投資信託の開発が始まるのです。