聖火リレー報道規制IOC「ルール」に法的根拠はあるのか
「IOCのルールに則り、動画は28日夕方までに削除します」
東京新聞編集局アカウントの、このツイートを見た時は、あまりにびっくりして、失礼ながら「ホンマカイナ?」とさえ思った。まだ3月でエイプリールフールには早い。
その動画は、東京オリンピック聖火リレー初日の25日、福島県内で撮影されたもの。トーチを持ったランナーの前に、スポンサー企業の大型宣伝カーが大音量で音声や音楽を流し、そろいのユニフォームを着た男女が、沿道に笑顔で手を振ったり踊ったりして、イベントを賑々しく”盛り上げ”ている様を映していた。
実は私は、動画の存在をこの削除予告ツイートで知る体たらくであった。
テレビなどで報じられる、トーチを掲げて淡々と走る聖火リレーとは全く異なる光景に、驚いた人は多かったのだろう。取材した原田遼記者のツイートは1万9000回リツイートされ、動画は90万回近く再生された。
それだけ反響が大きかった動画を削除する理由を、東京新聞編集局アカウントは、こう説明していた。
〈このルールは「新聞メディアが撮影した動画を公開できるのは走行後72時間以内」というもので、2月に報道陣に伝えられました。今回の件で抗議や圧力があって削除するものではありません〉
東京新聞は抗議や圧力に屈しません。そう言いたいのだろうが、なんだか釈然としない気持ちになった。
それに、そもそもそんな「ルール」がありうるのか?
なにしろ聖火リレーは、公道で行われているイベントだ。その状況を動画で伝える報道に時間制限をつけるなんて、そんなトンデモなルールが本当にあるとはにわかに信じがたかった。
違反者には法的責任が…?
結論を言うと、ルールはあった。
IOCの「第32回オリンピック競技(Tokyo 2020)聖火リレーに適用されるニュースアクセスルール」日本語版(以下「ルール」という)だ。これは、メディアをIOCからテレビやネットで聖火リレーを放送・配信する権利を与えられている「権利保有放送事業体(RHB)」と、それ以外の「非RHB」に分けたうえで、新聞など非RHBの動画コンテンツについて次のように定める。
〈オリンピック聖火リレーを、イベントから72時間経過するまでの間に限り、非独占的に、ディレイで(すなわちライブではなく)、放送し、及びあらゆるプラットフォーム(インターネットを含む)経由で配信することができる〉
確かに、この「ルール」では、非RHBである新聞メディアは、公道で行われる聖火リレー動画を、72時間しかネット配信できない、と読める。
そのうえ、「ルール」違反にはこんな警告も…。
〈IOCの権利を侵害するものとみなされ、違反者は、著作権、商標、刑事、不正競争、不正利用及び/又は契約に関連する適用法令に基づき、法的責任を問われる可能性がある〉
日本の法律を無視した傲慢な「ルール」
こういう法律用語の羅列は、大いに人をビビらせる。「何を言っても無駄」と、思考停止にさえ陥らせる。
でも、ここで考えるのをやめてはならない。
そう思い直して、とりあえず専門家の話を聞いてみることにした。数少ない知り合いの中で、唯一知的財産法が専門の玉井克哉・東京大教授に電話した。
先生、この「ルール」をどう思います?
この唐突な問いに対する玉井教授の第一声はこうだった。
「法外な話。とてつもなくデタラメな主張ですね」
安心した。専門家の目にも、そう映ったのか。
で、そのココロは?
「(特定の組織が)公道を使って行われるイベントを撮影し、それを報じるのを妨げる『権利』などありませんよ」
やっぱりそうかと思いつつ、素人の私にも分かるように、とお願いして解説してもらった。
「たとえば美術館の場合、勝手に写真を撮らないという注意事項があれば、入館の時に契約が生じますね。神社仏閣などでも同じように参観者は契約に縛られます。オリンピックの場合も、開会式や競技などは、スタジアムに入る、あるいはチケットを購入した時に、契約が生じます。でも、聖火リレーが行われているのは公道でしょ。そこでの報道規制を権利として認めるなら、京都の葵祭や大文字焼き(五山送り火)、大阪の岸和田だんじり祭なども、主催者が認めたメディア以外は報道できなくすることも可能になってしまうんじゃありませんか」
確かに。
「そんなありえないことが、オリンピックなら『ある』というわけです。(この『ルール』は)表現の自由を尊重する日本の法を無視した、かなり傲慢なものだと思いますよ」
フリーランスはOKだけど新聞記者はNG?
しかも、この『ルール』は新聞社の社員は縛っても、フリーランスのジャーナリストには適用されない、という不思議なものだ。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会(組織委)の東京2020聖火リレーメディア事務局に確認したが「フリーランスのジャーナリストが独自に撮影した動画について、取り決めやルール等はございません」とのことだった。
昨年2月、組織委は一般人が撮影した動画を、SNSなどのインターネットに上げることを禁止とする方針を示した。この時も、IOCの取り決めだと説明された。しかし、この方針は後に撤回されている。
「フリーランスや一般市民が自由だというのは当然だとしても、この『ルール』を適用すると、記者がメディアに所属しているが故に一般市民よりも表現の自由を制約される、ということになります。報道機関に重要な地位を認めた『ペンタゴン・ペーパーズ』事件合衆国最高裁判決などとは逆方向の考え方であるように思われます」と玉井教授。
やっぱり!という感じがする。
日本の法制度との整合性を検討してない?
こうした「報道の自由」との整合性を、組織委はどのように検討したのか。その点を聞きたくて組織委に質問したが、回答はなんと次の1行だった。
「IOCにご確認ください。」
へ?! これには、かなりずっこけた。
ということは、組織委として、日本の憲法や法律との整合性を検討していない、ということですね?!
この理解が間違っていれば指摘して欲しい、と組織委にメールしたが、返信はなかった。
私の理解は間違っていない、ということなのだろう。
裁判で勝てても高いハードル
報道の自由との兼ね合い、といえば、憲法である。この問題を憲法学者はどう考えるのだろうか。
やはり数少ない専門家の知り合いの1人で、憲法学者の南野森・九州大教授に電話した。
南野教授は、「報道の自由」の大切さをとっくり語った後で、こう指摘した。
「このような『ルール』を国や自治体が作れば、確実に憲法違反です」
なるほど。
そのうえで、こう続ける。
「問題は、国家を凌駕するような存在でもありながら、IOCが民間組織である、ということです。なるほど民間なら、それが許される。とは言っても、IOCは純然たる民間でしょうか。本件のような場合、訴訟になれば、報道の自由をむやみに制限するものとして、認められないという判断が出ると思われます。でも、実際問題として、裁判で争うのはものすごくハードルが高いですよね」
「ルール」も、不服がある場合に争うことは認めているが、仲裁の場は、スイス・ローザンヌのスポーツ仲裁裁判所としている。しかも言語は英語。確かに、とてつもなくハードルが高そうだ。
国民の「知る権利」が損なわれている
「お金がかかるし、英語が堪能な専門家を雇わなければならない。新聞社としては、そこまでの労力もかけられないですよね。IOCはオリンピックに関する今後の取材許可の権限を一方的に持っているので、次の大会で取材できないなどの不利益も心配になります。というわけで、メディアは、結局はIOCの理不尽な要求を飲まざるを得ず、いわば権力のいいなりになってしまう構造が作られていますね」
このような力関係の中、メディアがIOCに気を遣い過ぎる状況が生まれ、国民の「知る権利」を損なっている、と南野教授は懸念している。
「テレビで見る聖火リレーは、メダリストが走ったとか、100歳以上の人が走ったとか、きれいなところばかりが報道されています。まさか福島であのようにやかましいイベントが行われているとは、僕もこの動画を見るまで知りませんでした。そういうことも知らせてくれるのが報道機関の役割。これが十分になされていない今の状態は、国民の知る権利が害されている、と言えますね」
確かに!
しかも、今回のように、せっかく知る権利に応える報道をしても、それに時間制限をかけられれば、報道に接する機会を得られない人も出る。日常的に東京新聞の情報に接している人ばかりではないし、ツイッターのタイムラインをすべて確認している人は稀ではないか。私自身、この動画の存在を知ったのは削除寸前だった。
この「ルール」に法的根拠はない
この72時間規制について、憲法学者で情報法が専門の曽我部真裕・京都大教授(憲法)にも話を聞いてみたいと思った。ただ、「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」の会場で曽我部教授の発言を取材していたとはいえ、個人的に接触をしたことはない。
けれども、曽我部教授はすぐに電話取材に応じて、72時間規制について、明解な見解を示してくれた。
「法的根拠はありませんね」
やはり…そうですか…。
法的根拠がないから、フリーランスのジャーナリストなどの行動は規制できない、という説明にうなずく。どれほど自由奔放なフリーランスであっても、法的根拠があれば、当然従わざるをえないはずだ。
報道機関はコントロールできる
なのに、新聞記者を縛る無法な「ルール」が平然と作られ、効果を発揮してしまうのはなぜか。その問いについても、曽我部教授の回答は明解だった。
「一般人やフリーランスにIOCのコントロールは効かないが、報道機関はコントロールができるから、でしょう」
報道機関は、IOCが「ルール」を提示すれば、たとえ法的根拠がなくても従う。情けなくないか?
公私の顔を都合良く使い分ける
そのような勝手な「ルール」でメディアを縛れるのは、IOCが民間組織だからだ。しかし、IOCは純然たる民間機関なのか。
「オリンピックには、公共イベントと民間イベントという両方の側面があります。公金を投入する時には公共の顔をし、放映権が絡むと民間のロジックで、と都合良く使い分けている。多額な公金が投入され、国民の関心も高く、それを取材し報道することは、公共性があります。一方的に設定したルールで、公的な組織が取材拒否をするということがあれば、問題です」(曽我部教授)
まったくだ。
萎縮と自粛の原因を探る
今回の動画を掲載し続けることで、原田記者個人が登録を外されるのみならず、東京新聞本体がオリンピック本番の取材を拒否される事態になれば、国際的なスキャンダルになるだろう。IOCや組織委が受けるダメージを考えれば、そういう強硬措置は考えにくいように思う。
にもかかわらず、原田記者がここまで追い詰められ、萎縮したのはなぜだろうか。権力が一方的に圧力を加える場合以上に、報道する側が萎縮し、勝手に自粛するケースは、問題の所在が見えにくくて、かえって深刻だ。このメディアの側の問題も考えておかなくてはならないだろう。
同紙web版に掲載された「聖火リレー 私が五輪スポンサーの『お祭り騒ぎ』動画をTwitterから削除した理由」と題する原田記者の記事を読むと、オリンピック本番の取材パスをもらえなくなるのではないかと恐れ、それが萎縮につながったことが分かる。
原田記者は、組織委から聖火リレーに関する様々な情報提供のサービスを受けられるメディア・ライブラリーに登録していた。記者クラブと一緒で、公式情報の入手には便利なのだろう。ただし、そのメンバーとしてサービスを提供するかの判断は、組織委に委ねられる。ここに登録していたことで、IOCの「ルール」遵守へのプレッシャーがあったのだろう。
けれど、今回のような沿道からの取材をするなら、何もライブラリー登録をせずに取材すればよかったのではないか。実際、何の規制もなく、取材したフリーランスのジャーナリストもいる。スポーツ担当などの記者がライブラリー登録していれば、新聞社としてはIOCの資料を得るうえでは問題はないだろう。あえて記者個人はIOCのサービスを受けずに自由に動く選択もあったのではないか。
動画の扱いにしても、新聞社のウェブサイトでは「ルール」に従い、記者のツイッターでは公開を続けるなど、事前に様々な選択肢を検討することはできなかったのか。動画のアップ前に、法律の専門家の助言を受けてもよかっただろう。知り合いが数少ない私などと違って、新聞社の場合は様々な専門家がリストアップされ、容易にコンタクトもできて、様々な助言が受けられたはずだ。
「オリンピックの『闇』」を伝えようと意気込むなら、せめてそういう準備をしたり、理論武装したり、もう少し知恵を絞って、したたかな対応をする工夫が必要だったのではないか。テレビが報じない聖火リレーの一側面を伝えたのは素晴らしいセンスだったが、報じた後のことを考えずにアップしてして、あとからビビるというのは、ちょっとナイーブすぎないか。
ただ、新聞社は組織ジャーナリズムであって、記者個人の問題として見るのはいささか気の毒だ。同社のバックアップ体制はどうだったのか。
果たして、「抗議や圧力があって削除するものではありません」とか言っている場合か? 抗議や圧力もないうちに萎縮・自粛するのは、なお問題だろう。こういうときに、組織としての総合知を動員しないで、どうするのだ?という気がする。
取材される側は”進化”、取材する側は…?
加えて、日本において報道の自由を守るためのメディア間の連携が弱い、という点も、今回の背景にあるかもしれない。1つのメディアが不利益な状況に追い込まれても、なかなかジャーナリズム全体の問題として受け止められない。IOC相手に孤立無援の戦いを強いられるのではないか、という不安がよぎったとしても無理からぬところがある。
曽我部教授は、こう問いかける。
「政治においてもそうだが、取材される側は、自分たちにとってよい情報だけが流れるよう、報道をコントロールしたい。そのために使えるものは何でも使おうとする。取材される側は近年、そういう形で”進化”している。一方、報道する側はどうか」
「こういう『ルール』を押しつけられた時には、法的根拠を検証するとか、報道機関が連帯して抗議するとか、対抗する方法をもっと考えなくてはいけないのではないか」
報道は何のために?
これらの問いは、報道は何のためにあるのか、というジャーナリズムの存在意義に通じる。
先の玉井教授からは、電話の最後にこう釘をさされた。
「『報道(press)は被治者(the governed)に奉仕するのであって、統治者(the governors)に奉仕するのではない』*という言葉を、よもやお忘れではないですよね」
はい!
背筋が伸びる思いで、その言葉を聞いた。
*New York Times Co. v. United States, 403 U.S. 713, 717 (1971)(Black, J., concurring)
(3教授の写真は本人提供。それぞれのコメントの文責は江川にあります)