北方領土に行ってみた(再訪)-2
前回の小欄(「北方領土に行ってみた(再訪)」)では、5年ぶりに訪れた北方領土の国後島をめぐる状況について述べた。
そこで今回は、二つ目の訪問先である択捉島についても紹介してみたい。なお、択捉島の訪問は7月29日と30日の2日間にわたって行われた。
目を見張る観光業の発展
択捉島は北方領土最大の島であり、その面積は約3187平方kmと、沖縄本島の2.7倍ほどもある。また、前回も述べたように、択捉島には大手水産企業ギドロストロイの事業所が複数置かれているため、経済的にも国後島よりも全体的に豊かであるとされる。
そのことは、我々が上陸したクリリスク市内の様子からも明らかであった。
道路の舗装率や建物の新しさなどは明らかに国後島をしのいでおり、島民の服装も心なしか国後島よりもこざっぱりとしている。
何より際立っていたのは、択捉島に観光業が成立しつつあることだった。5年前の訪問時にもすでに島内にホテルは存在しており、ロシア本土などからのエコ・ツーリズムに期待している旨の説明があったが、今回の訪問ではホテルやレストランの数が格段に増えていた。訪問初日には島内のホテルのレストランで昼食をとる機会があったが、IKEAの家具で統一されたなかなか綺麗な内装で食事もおいしい(この点、国後島の「友好の家」、いわゆるムネオハウスで出された食事はちょっと…という感想が多かった)。
5年前にも存在していた温泉施設も再訪することができたが、硫黄の匂いがする濁り湯は相変わらず格別で、海を見ながら入浴できる露天風呂も新たにできていた。地元の住民も数多く訪れており、そのうちのひとりに話しかけてみると「よく来るよ。背中をいためているので治療に来てるんだ」とのことであった。入浴料は1時間200ルーブル(400円弱)とリーズナブルである。
また、筆者とは別行動した班の報告によると、島内には長期滞在型ホテルができており、夏休みを過ごしながら釣りやクルーズも楽しめるようだ。我々が到着した紗那(ロシア名:クリリスク)の埠頭には瀟洒なクルーズ船が停泊していたが、これも観光用であると思われる。
さらに今回の訪問では、日本からの訪問団として初めて、ビラ海岸と呼ばれる景勝地を訪れることができた。オホーツク海側に数kmにわたって続く石灰岩の崖地で、真っ白な崖の上部を緑の草が覆う美しい海岸である。海水も、山から流れ出る清水も非常に澄明で美しい。
まだ整備された道路が通っておらず、バギーやオフロードカーでないとアクセスできないが(訪問団は大型トラックの荷台に客席を設けた「トラックバス」に分乗して訪問)、日露共同経済活動の一環として検討されている観光協力が実現すれば有力な観光地となろう。
択捉島の「国際化」
ただ、これだけ択捉島での観光開発が進んでいる現状を考えると、「観光協力」のあり方も考える必要がある。択捉島の自然はたしかに美しいが、ここにただ日本人観光客を送り込むだけではロシア側の実効支配を追認し、その経済基盤を強化するだけに終わる可能性が高い。
一方、ロシアにしてみれば、日本人観光客が呼び込めないならば他国から呼び寄せればよいということにもなりかねない。ビラ海岸からの帰途、我々を乗せたトラックバスは他の観光客を乗せた4WD車と行き合った。道(といってもほとんど獣道に近い)が狭いため、トラックバスと件の4WD車がうまくすれ違えずにしばらく停車する時間があったので降車してみたところ、後部座席に乗っていたのはアジア人の二人組であった。中国から来たという。
今のところ中国とロシアが北方領土の観光に関してなんらかの協力で合意したというニュースは伝わっていないが、中国マネーが択捉島に流れ込むことになれば、これも日本としては座視し難い事態であろう。観光協力とはいっても、日本としての立場を守りながらこれを進めていくのは存外に難しいのではないかという感慨を抱いた。
択捉島の観光開発に関して気になる点はもうひとつある。前述した長期滞在型ホテルの宿帳に、日本人の名前があったという訪問団員の報告である。外務省は、日本国民がロシアのビザを取得して(つまりロシアの実効支配を認めて)北方領土を訪問しないように呼びかけているが、実際には一度ロシアに入ってしまった日本国民の行動を制止することはできない。択捉島に新空港がオープンし、サハリンとの間で航空便が毎日運航するようになったことで、訪問自体もそう難しいものではなくなっている(国後島ではサハリンからの観光客にも出会った)。
このように、北方領土の「国際化」はなし崩し的に、しかし着々と進行しているのが現状だ。
複雑な気持ちの住民交流
択捉島では毎回、地元住民の自宅を訪問するホームビジットがある。
今回訪問したのは地元の発電所で働くジャンナさんと、その夫で水産加工場の技師をしているイーゴリさんのお宅であった。中心地の紗那から車で20分ほどの別飛(ロシア名:レイドヴォ)にある一軒家である。
この村も5年前に訪れている。その際はほとんど朽ちかけた廃墟の村という印象であったが、現在は舗装道路も通り、建物や公共施設もかなりきれいにリノベーションされている。
ホームビジットは非常に暖かな雰囲気に終始した。テーブルの上には山盛りのご馳走が並べられ、お互いの職業や家族の話に花が咲いた。この家には筆者も含めて4人で訪問したが(このほかの団員はやはり3-5人程度に分かれて別の家を訪問する)、うち1人が海上自衛隊の元海将であったことがわかると、かつて国境警備隊で勤務していたというイーゴリさんは非常に喜んでくれ、「今日はロシア海軍の創設記念日です。こんな日に提督に来てもらえるなんて嬉しい」と海軍の守護聖人ウシャコフ提督のイコンをプレゼントしてくれた。海の男同士の友情は見ていてなかなか気持ちのよいものであった。
このように、北方領土住民の対日感情は決して悪いものではない。また、筆者も二度にわたって北方領土を訪問してみた実感として、ホームビジットでは住民のもてなしに非常に暖かい気持ちも抱く。
その一方で、四半世紀にわたる北方領土住民との交流が「友好」の域を出ていないことも事実である。肩を抱き合ってウォッカを酌み交わした仲であっても、領土の帰属の話となればお互い譲れないことも多い。
ちなみにジャンナさんは択捉島で生まれ、姉妹や親戚もすぐ近所に住んでいるという生粋の択捉島住人である。彼女にこの島は本来、日本領なのだと主張して納得してくれるかどうかは極めて難しいところであろう。
迫るタイムリミット
最後に、今回の訪問を筆者なりに総括してみたい。
全体として言えることは、「残された時間」の短さを実感した、というのが正直なところである。
北方領土で実際に生まれ育った元島民一世の平均年齢はすでに83歳に達しており、これらの人々が元気でいられる時間は残念ながらそう長くはない。細かいことを言えば訪問船から島に上陸する連絡船への移乗(かなり上下する甲板の間を狭い渡し板を通って乗り移る)でさえ、お年寄りにはかなりの負担である。この意味では昨年から始まった航空機墓参は負担軽減策として有効であろうが、生物学的な寿命の限界を超えられるものではない。
一方、北方領土におけるロシアの実効支配期間はすでに70年間を越えており、すでに数世代にわたって暮らしているという住民も珍しくない。インフラ整備も時間が経つごとに進んでいく(すでに日本時代の建築物はほぼ姿を消している)。
この二つの現実をふまえるならば、北方領土問題が次第に忘却され、ロシアの実効支配が完全に動かし難くなるという最悪の事態はそう遠い将来のことではないだろう。
しかし、現実には、北方領土問題の具体的な落とし所に向けた歩みは極めて遅いと言わざるを得ない。交渉のテコとなるべき共同経済活動についても、その基礎となる法的枠組みに関してさえ、依然として合意できていないのが現実である。
かつて、この島で暮らした人々が突如として平穏な生活を破壊され、辛酸を舐めた歴史に、日露がどのような着地点(かならずしも四島返還である必要はなく、また現実的にもそれは困難であろう)を見出すのか。困難な状況と短い時間のなかで国民が知恵を絞らねばならないことを改めて実感した3日間であった。