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真夜中のロスタイム。ドーハの悲劇――1993年10月28日

川端康生フリーライター
(写真:アフロ)

<極私的スポーツダイアリ―>

1993年10月28日深夜、悲劇は起きた

 その瞬間、時が止まった。

 テレビ画面も、その画面を見つめる僕たちも、呆然と我を失って、本当に固まった。

 カタール・ドーハからの衛星生中継。画面上に表示されていた時計が後半45分を過ぎて消えた直後だった。

 イラクのコーナーキック。ショートコーナーだった。

 気づいたカズが必死に寄せる。しかしボールはゴール前へ。

 実況の久保田光彦アナが裏返った声で叫んだ。

「ラストパスを送る! ヘディングシュートォ……」

 それが最後だった。そこから無音。

「……」

 あのとき僕の部屋には3人いたが、やっぱり無音。誰も言葉を発しないし、身じろぎもしなかった。

「……」

 テレビが生きていることはわかった。画面の中で、日本代表の選手たちがバタバタと倒れていったから。

 アメリカ・ワールドカップ予選の最終戦。このロスタイムの失点で、日本は目前にしていた初出場を逃した。

 1993年10月28日――その真夜中に「ドーハの悲劇」は起きた。

あの頃

 視聴率はテレビ東京開局以来最高の「48・1%」だった。

 そして無言状態は約30秒。

 つまり、あのとき日本人の半分が、深夜に同じ画面を見つめたまま固まっていたことになる。

 たぶん有史以来初めての出来事だったに違いない。

 沈黙は画面が現地からスタジオに切り替わっても続いていた。

 司会の金子勝彦アナが「うーん、何と言えばいいのか……」と重い口を辛うじて開くが、ゲストの森孝慈(元日本代表監督)は沈痛に唸るしかない。

 代表チームの主将、柱谷哲二の兄・幸一にいたってはうつむいて涙をこらえている。

 僕は翌朝、森さんと約束があって、しかもよりによって森さんが運転する車に(二人きりで)同乗することになったのだが、その車内も当然、沈痛。重苦しいドライブになった。

 この1993年は、非自民の細川連立内閣が発足し、戦後長らく続いてきた「55年体制」が崩壊した年である。

「高度成長期」が終わった日本経済が、バブル崩壊後の「失われた10年(あるいは20年)」と呼ばれる暗いトンネルに突入した頃でもあった。

 そんな日本にあって唯一と言ってもいいほど、煌びやかな輝きを放っていたのが新たに誕生したプロサッカーリーグ、そう「Jリーグ」だった。

 この年、5月15日に開幕。チアホーンが鳴り響くスタジアムはいつも(どんなカードも)満員で、フェイスペイントをし、ミサンガを手首に巻いた若者たちで溢れていた(→「Jリーグが誕生した」)。

 ちなみにNHKで放送されたヴェルディ川崎と横浜マリノスの開幕戦の視聴率は「32・4%」。

 テレビにはJリーグ番組が続々誕生し、出版界ではJリーグ雑誌が雨後の筍のように創刊され、コンビニにはJリーグブランドの商品がずらりと並び、そればかりかJリーググッズを専門に扱うショップ「カテゴリー1」が全国に100店舗もできた。

 当然、この年の流行語大賞は「Jリーグ」。新語大賞金賞も「サポーター」だった(流行語大賞は川淵三郎が、新語大賞はカズ夫人の設楽りさ子が登壇)。

「流行語」と「新語」に違和感を覚える若い世代もいるかもしれないが、本当にそんな感じで流行し、突然ブームアップしたのだ。

 日本人がサッカーと出会い、夢中になった年、それがこの1993年だった。

ドーハへのイントロ

「突然」に異論がある人もいるだろう。

 しかし、この「ドーハの悲劇」の4年後。フランス・ワールドカップ予選の「ジョホールバルの歓喜」は知っていても、4年前のイタリア・ワールドカップ予選を覚えている人がどれだけいるだろうか(1次予選敗退)。

 結果はもちろん、テレビで見た記憶がある人もほとんどいないはずだ。

 当然である。イタリア・ワールドカップ予選は生中継されていない。それどころか西が丘で行われた試合さえあった(観客は9000人だった)。

 ちなみにテレビの視聴率。

 アマチュア時代にはサッカー界で最大の注目ゲームと言える元旦の天皇杯決勝でさえ、4~8%程度(1980年代)。日本リーグにいたっては「視力検査」(1・2とか、1・5とか)と揶揄される水準だった。

 それが32・4%になったのである。それどころかこの1993年、Jリーグは生放送だけでも55試合もテレビ中継されている(録画も含めれば92試合)。

 日本人は「突然」サッカーに夢中になったのだ。

 もちろんイントロはあった。

 この3年前、カズがブラジルから帰国。読売クラブに入団した(→「カズが日本に帰ってきた」)。

 そして、プロリーグ設立の足音が響く中、カズをはじめとしたプロ選手によって日本サッカーは変わり始めた。日本リーグのスタンドが埋まり始め、サッカーのメディア露出も増え始め、日本代表も勝ち始めていたのだ。

 とりわけ競技力については、Jリーグ効果だけとは考えにくい。選手の技術は(人気のように)急激に向上しないからだ。

 日本代表初の外国人監督、オフトが就任し、ダイナスティカップで国際大会初優勝を飾り、アジアカップも初制覇。そんな積み重ねの末に、4年前の1次予選敗退から最終予選まで辿り着けたのである。

 その意味で「ドーハ」は「悲劇」ではあったが、アマチュアからプロへと大改革に取り組んだ“Jリーグ夜明け前”の成果でもあった。

 そして「悲劇」だったからこそ、幸福な始まりになった、そんな気もする。

歓喜ではなく悲劇だったからこそ

 なぜなら「Jリーグブーム」真っ只中で起きた「ドーハ」が、もしも(悲劇ではなく)「歓喜」だったとしたら、ブームとともに消費されてしまったかもしれないからだ。

“にわか現象”で終わった可能性も低くないと思う。

 だが、あの夜、日本代表は「あと一歩」まで迫りながらロスタイムの失点で失意のどん底に突き落とされた。

 だから、そんな残酷性とともにこの競技の面白さを、「Jリーグ」でサッカーと出会った多くの日本人が、痛いほど知ることになった。

 それも深夜のテレビ画面の前で同時に、その体験を共有したのだ。

 だから日本代表は「国民的関心事」になった。

 そればかりか4年後、今度は第3代表決定戦の、それも延長Vゴールという(できすぎなほどの)ストーリーによって、日本人を完全に"サッカーと日本代表の虜"にしてしまうのである。

 ドーハを「悲劇ではあったが、幸福な始まりだった」と考えるのは、だからだ。

 それにしても、改めて時代を俯瞰すれば、あの頃の日本サッカーは"初めての経験"と"出会いがしらの感動"の連続だった。

 そんな中で「プロリーグの創設」と「ワールドカップへの出場」という大きな夢が叶い続けた奇跡のような時代でもあった。

 そしてもう一つの夢、「ワールドカップの開催」も――と書いて、最後に付け加えておくことがあったのを思い出した。

 実はあの夜、日本サッカーはもう一度呆然とすることになったのだった。

 ロスタイムの失点から数時間後、韓国が2002年ワールドカップへの立候補を表明したのである。

 あの激しい招致合戦の火蓋が落とされたのも、やはりあの夜だった。

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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