【連載】暴力の学校 倒錯の街 第8回 悲劇の序章
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悲劇の序章
宮本煌は一九四五年に生まれ、六八年に福岡大学商学部を卒業、同年四月に近大附属に非常勤講師として就職、教科は商業を担当した。七二年九月に教諭に昇格し、八九年ごろから進路指導部長に就いている。クラス担任は七三年四月から任されるようになったが、年によっては担任から外されることもあった。
教諭に昇格した当初は商業の他に社会科も担当していたが、七五年ごろから商業のみを担当するようになった。商業の内容は主として簿記である。
進路指導部長の仕事は進路、就職関係の指導をおこなうもので、進路相談や就職先の斡旋・紹介もその指導の一環だった。近大附属では、卒業生の四分の三が大学・短大・専門学校に進学し、四分の一は就職をする。短大に関しては系列の短大があるため進学については比較的楽だったが、不景気も反映して就職先をさがすのは困難であった。とりわけ事務系の就職は少なく、進路指導部長の宮本は生徒たちの就職先の開拓に熱心に取り組み、企業まわりに奔走、担当者に頭を下げる労を厭わなかった。就職試験のとき有利になるように、模擬面接や模擬テストもおこなった。
一九九五年四月からは、進路指導部長のかたわら二年一組の副担任をつとめていた。このクラスは就職を希望する生徒たちが集められ、宮本は彼女たちか就職に有利になるよう簿記の指導に力を入れた。そして、生活指導の面でも厳しく対処した。それも、企業うけをよくするためという宮本の考え方だった。
同校では、生徒の希望に応じてクラス編制がおこなわれ、普通科の中に就職コースのクラスが二年生から設けられる。二年一組と三年一組が就職コースである。
宮本は、知美にどんな印象を抱いていたのだろう。
《陣内を知ったのは私が二年一組の副担任となったときです。それまでは知りませんでした。ただ副担任となったときに予備知識として、陣内が一年のときにタバコの喫煙という問題行動を起こし、学校内での謹慎処分を受けたことがある生徒であることを知っていました。問題行動を起こしやすい生徒として把握していましたが、特に目をつけていたわけではありません。簿記の授業などを通じ、陣内と話をし、教えるようになってから、陣内の性格などを知るようになりました。性格的には明るく朗らかであり、その反面素直さに欠けるところがありました。掃除時間における取り組みも積極的にやるほうではありませんでした。授業中の態度ですが、熱心に聞いているほうではなく、態度はよくないほうでした。ある意味では手のかかる生徒のひとりでした。
それから陣内の母親に指導したこともあります。今年(九五年)五月か六月ごろでしたが、陣内が学校が終わったあと、家にまっすぐ帰らず、友だちと飯塚市内にあるバスセンターのところで遊んでいるという情報かあり、これはこのまま捨ておくことはできないと判断して、棚町先生と私の二人で母親を呼び、注意してもらうよう指導したのです。陣内が私に対し、反発しなければならないようなものはなかったと思っています》
また、こんなこともあった。
《私は陣内から冷やかされたのか、あるいは同情されたのかはわかりかねますが、私の足が悪いことを授業中に言われたことがありました。薄記の授業のときに、膝ががくがくすることが話題となって、私がみんなに『それは膝が笑うというんだ』と説明したところ、山岸景子が『先生、それは足が笑うというのと違うの?』と言ってきて、そのときに陣内が『先生どうして足が悪いの?』と聞いてきたのでした。私は一歳のときに小児麻痺にかかり、右足首が麻痺した状態になっているのです。私はそのような身体的障害を持っておりますが、努力を重ね普通の人と同じように走ったりすることができるようになりました。中学から大学にかけて卓球をやり、それを克服してきたのです。しかしやはり気にしているところであり、そのときに陣内から質問されて、この子はどうしてこのような質問をみんなの前でするのかなあと思いながら、私は小児麻痺にかかったことをみんなに話してやりました。私は担任の棚町先生にお願いして、陣内に身体的障害を指摘しないように注意・指導していただきたいと頼みました。同和教育の観点からも必要だと思ったのです》
宮本の知美に対する見方は類型的だが、どこにでもありふれた「生徒と教師」だったともいえる。そんな陣内知美と宮本煌の「関係」が、瞬時にして奈落の底に落ちてしまったのは、一九九五年七月十七日午後のことである。