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「一律10万円給付」の背景にある現実空間の歪曲

橘玲作家
(写真:つのだよしお/アフロ)

治療法のない感染症の本質は、「疫学的な損害」と「経済的な損害」のトレードオフです。感染拡大を防ぐためにロックダウン(都市封鎖)すると、仕事を失って生活できないひとたちが街に溢れてしまいます。それをなんとかするために経済活動を再開すると、人間の移動や接触が増えて感染が拡大します。

世界じゅうで起きている新型肺炎をめぐるさまざまな混乱は、ほぼこのトレードオフで説明できるでしょう。問題は、現在のところ、このふたつの選択のあいだの「狭い道」を抜ける方法を誰も見つけていないことです。

ワクチンができれば感染症は克服できますが、専門家の多くは「開発まで早くても1年半」といっています。そこからワクチンを量産して世界じゅうで接種するには、さらに2~3年はかかるでしょう。「集団免疫ができればいい」という意見もありますが、そのためには人口の6~7割が感染して抗体を獲得する必要があるとされます。感染した場合の死亡率を1%とすると、日本人の7000万人が感染し、高齢者や疾患のあるひとを中心に70万人が生命を落とすことになります。

「解決できない脅威」は、私たちをものすごく不安にします。トレードオフは心理学でいう「認知的不協和」を引き起こし、そのとてつもない不快感から逃れるために、ひとはおうおうにして事実を直視するのをやめて目の前の現実を歪曲します。

その典型がトランプで、最初は「新型肺炎はインフルエンザみたいなもの」といい、感染が拡大すると「特効薬がすぐにできる」と豪語し、死者の山が積みあがるとWHO(世界保健機関)を非難して資金を引き揚げ、いまでは「中国の生物兵器」説を流しています。

しかし私たちも、海の向こうのドタバタ劇を笑っているわけにはいきません。「一律10万円給付」は公明党が連立離脱まで持ち出してしぶる安倍首相を押し切ったとされますが、この経済政策は5月の連休明け、あるいは6月中には感染が収束することを前提にしています。だからこそ、それまでなんとか耐え忍ぶだけの現金を「スピード感」をもってすべての国民に給付すべきだ、という理屈になるわけです。

しかし、そもそもこの前提が間違っていたとしたらどうなるのでしょうか? これから長い「感染症とのたたかい」がつづくとすれば、10万円配ったところでなんの意味もありません。だったらなぜ、こんなことに「連立離脱」を賭けるのか。

この奇妙な政治劇は、「1カ月で感染症は収束しているはずだ」あるいは「収束していなければならない」と現実空間が歪曲していると考える理解できます。

「一律10万円給付」のポイントは、満額の年金を受け取っているひとも給付を受けられることです。当然、高齢者は大喜びでこの政策を支持するでしょう。これは団塊の世代の票で当選している政治家や政党にとって、ものすごく魅力的な提案です。

新型肺炎がすぐに解決するのなら、この機に乗じて支持者に便宜をはかり選挙対策をやっておくのがもっとも合理的なのです、邪推かもしれませんが。

『週刊プレイボーイ』2020年4月27日発売号 禁・無断転載

作家

作家。1959年生まれ。2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。最新刊は『言ってはいけない』。

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