新しい春が始まる――Jヴィレッジ再開記念・福島ダービー
風はまだ少し冷たかったが、降り注ぐ太陽が春の訪れを感じさせた。何よりスタンドを埋めた2000人を超える観客の歓声が寒さを吹き飛ばすようだった。
Jヴィレッジ再開記念 福島ダービーマッチ。
対戦したのは福島県唯一のJクラブ「福島ユナイテッドFC」と、地元・浜通りに誕生した「いわきFC」。東日本大震災の後、原発事故収束の作業拠点となっていた「Jヴィレッジ」の復活を告げる記念のダービーマッチだった。
ごく短かくここまでの経緯。
2011年3月11日の発災後、まず前線基地として、その後中継基地としてJヴィレッジは機能してきた。
2013年7月、対応拠点が原発内に移転したことに伴い、日本サッカー協会は「Jヴィレッジ復興サポートプロジェクト」を発足。トレーニングセンターとしての再稼働へ向けて動き出した。
もちろん再開への道のりは容易ではなかった。敷地内は資材置き場や駐車場、仮設の事務所や寮として使用されていたため、かつて一面の芝生だったピッチは砂利やアスファルトに変わっていた。もちろん除染もしなければならない。
だから40センチ表土を削り取り、広大なピッチに改めて天然芝を植え直した。
芝生の張り替えを終え、根付かせ、一部再開にこぎつけたのが昨年夏。そして今年、ようやく全面開業に辿り着いた。
「サッカーの聖地だったJヴィレッジが、震災があって、復興の拠点となって……。ここを再開できるまでに多くの人が尽力してきた。そのことを試合前に話して、選手をピッチに送り出した」
いわきFC・田村監督のそんな思いは、福島県のみならず、多くのサッカー関係者が共感できるものだろう。
聖地・Jヴィレッジ
Jヴィレッジが誕生したのは1997年である。
まだ日本代表がワールドカップ本大会に出場したことがなかった頃、日本サッカー強化のための拠点を欲していた時代に計画され、ようやく手にできたトレーニングセンターだった(当時「日本にもフランスのクレーヌ・フォンテーヌのような施設を」としきりに話していたのが懐かしい)。
フランス・ワールドカップの後、着任したばかりのトルシエ監督がエキセントリックな指導を繰り広げたのもここだったし、ドイツ・ワールドカップへ向かう直前、ジーコ・ジャパンが最後の国内合宿を行ったのもここだった。
現在Jヴィレッジ副社長を務める上田栄治が「なでしこジャパン」の礎を築いたのも、やはりこのグランド。田村監督が言った通り、まさしく<Jヴィレッジは日本サッカーの聖地>だった。
またJヴィレッジは<未来を育む取り組み>を始めた場所でもあった。
JFAアカデミーである。全寮制で高いレベルのトレーニングを行うと同時に、サッカー選手として必要な語学などの勉強も行うエリート養成プログラムが実現可能となったのも、この施設ができたからだった。
この日出場したいわきFCの平澤や平岡は、そんなJFAアカデミーの出身。特にボランチとしてキャプテンマークを巻いた平澤は、まさにJヴィレッジのグランドで練習中に震災が発生。避難するまでの3日間を施設内で過ごしている。
それだけに「再びプレーできる日が来るとは思っていなかった。避難した後もニュースなどで変わり果てていく姿を見てきたので。でも今日久しぶりに来たら、ロッカーもピッチも昔のままで嬉しかった」と感慨も深い。
そして「自分が育ててもらった場所でプレーする姿を見せることができた。お世話になった人とも再会できました」と顔をほころばせた。
記念試合が行われたスタジアムのゴール裏、丘の上に立つ建物こそ、まだ中学生だった彼らが親元を離れ、サッカー選手としての未来を夢見ながら暮らした寮だった。
福島ダービー
試合にも簡単に触れておこう。5対0でいわきFCが圧勝した。結果と内容が一致するとは限らないのがサッカーという競技だが、このゲームに関しては結果が内容を象徴している。
立ち上がりから一貫していわきFCのペースだった。前線からプレッシャーをかけ、高い位置でボール奪取。そのまま相手ゴールに襲いかかった。
「フィジカル」が注目されがちないわきFCだが、この試合ではダイレクトでパスが流れ、コンビネーションで相手を崩すシーンも多かった。チーム創設以来、折々に試合を見てきたが、“ボールゲーム”としての質はもっとも高かった。ポジショニングや距離感がよく、個人の判断力も上がっているように見えた。メンバーが半数近く入れ替わった効果もあるかもしれない。
4月に開幕する東北1部リーグを優勝し、地域チャンピオンズリーグも勝ってJFL昇格――という今季の目標へ向けて、順調にチームビルディングが進んでいる印象を受けた。
一方、大敗した福島ユナイテッドは、そんないわきFCのプレッシャーに自陣でボールロストを続発。リズムを完全に失ってしまった。
「相手のプレッシャーは予想していたし、そんな中でもボールと人を動かしたいと思っていたが、半分もできなかった。(前線へ蹴らずに)後ろからつなぐ判断が適切だったかどうかわからないが、次の段階に進むための一歩にはなった」と松田新監督は意図を持っての戦術だったことを強調したが、不安が募るゲームだったことは否めない。
J3の開幕までにどこまでリストラクチャできるか。サポーターにとっては落ち着かない日々になりそうだ。
いわきFCが誕生して
もしかしたら東北1部のいわきFCがJ3の福島ユナイテッドに大勝したことに違和感を覚えている人がまだいるかもしれないので、念のために説明しておけば、一昨年も昨年も公式戦ではいわきFCが連勝している。
カテゴリーが違う両者が直接対戦する唯一の試合、天皇杯福島予選(決勝)は2008年から福島ユナイテッドが9連覇。しかし、いわきFCが誕生した後、2016年こそ延長戦の末に福島ユナイテッドが辛勝したが、2017年、2018年はいわきFCが勝利しているのだ(福島代表として出場した天皇杯本大会でコンサドーレ札幌も破ったことは全国のサッカーファンも覚えているだろう)。
チーム創設から4年、福島県2部リーグから一段ずつ階段を昇っているため、まだ東北1部リーグに所属しているが、いわきFCはすでにかなり強い。
そして、そんないわきFCの台頭が、福島県サッカーのレベルアップにつながり始めていることは言うまでもない。それまで無風だった福島サッカー界に「いわきFCと切削琢磨しながら(福島県のサッカーを)盛り上げていきたい」(松田監督)という状況がようやくできたのである。
改めて振り返ってみれば、いわきFCは震災がきっかけとなって誕生したクラブだ。復興のための企業誘致に応じて、アンダーアーマー(ドーム社)がいわき市に物流センターを作り、その流れの中でサッカークラブの運営を始めた。
さらに、その物流センターと隣接する形でグランドが整備され、先端的なクラブハウスが建設され、いまやクリニックやレストランまで併設されるスポーツ界注目の施設になっている。
そればかりかいわき市の観光資源としての役割まで果たしつつあり、物流センターでの雇用も含めて、いわき市における存在感は相当に高い。
誤解を恐れず言えば、それらはすべて震災が起きてしまったからこそ生まれたものということだ。早い話、いわきFCが誕生しなければ、そもそも「福島ダービー」は成立しなかった。
新しい春が始まる
そのいわきからJヴィレッジまでは太平洋を右手に見ながら国道6号線を30分ほど北上。隣町の広野町に入ればすぐだ。
震災後、東北沿岸の変貌ぶりは訪れている回数の多い人ほど実感していると思うが(訪れるたびに建物が変わり、道路が変わり、風景が変わった)、いわきから広野にかけてもやはりそうである。
津波の被害に遭った集落はもちろんだが、国道6号線沿いにしてもラブホテルが長期滞在者の宿になり、コンビニが次々に現れ、新しいビジネスホテルが建ち……。
僕たちはどうしても「震災前」と「震災後」を比べてしまいがちだが、実を言えば「震災後の8年」の間にも、それぞれの地域で、それぞれの形の、しかし大きな変化が起き、しかもそれはいまも起き続けていることを、やはり感じずにはいられない景色である。
だとしたら――と思う。
震災前ではなく、震災後をスタート地点にして未来を考え始めてみたい。あの日より後に誕生したもの、手にしたもの、始めたこと、そして生まれ変わった場所。そこから描く未来。
スタジアムに久しぶりに歓声がこだました日曜の午後、降り注ぐ日差しには春の気配が漂い始めていた。
笑ったり、叫んだり、スタンドを埋めた2183人の頭上には青空。そういえば広野町は「東北に春を告げる町」である。
新しい春が始まる。Jヴィレッジと浜通りに新しい季節がやってくる。