「人を紹介する」ということの難しさ
■世の中は「紹介」だらけ
結婚紹介所や人材紹介会社をはじめ、世の中には様々な「紹介」がある。
リクルートも電通もGoogleも全部、要は「いかに適切に効率的に紹介をするか」ということをビジネスにしている。
ビジネスだけでなく、プライベートの世界でも沢山ある。SNSでも「誰其を誰其に紹介する」という機能などもある。
世界は新しく人や物がつながることでどんどん変化していくので「紹介」(≒マッチング)という機能は世界の基礎を為す大事な行為だ。
■昔は「繋がる」コストが高かった
大昔は、誰かが何かに出会い、繋がるために、とてつもないコストや幸運が必要だった。
結婚は自由恋愛などほとんどなくお見合い的な家同士の都合で決まり、就職も推薦やコネクションがほとんど。うまい話は、クローズドな一部の集団だけが知っていて、そこに入れない大多数の人は情報からあらかじめ締め出されていた。
そんな時代は「紹介する」ということが、今よりもとても価値のあることだったろう。
■そこで繋げる人に価値があった
「フィクサー」という言葉がある。文字通り「フィックスする=決める」人という意味。
イメージは、ゴルゴ13とか任侠映画とかで、奥まった町の和風の豪邸のそのまた奥座敷の御簾の裏に鎮座していて、様々な重要人物の相談を受け付ける。そして、ぼそっと謎の秘書に耳打ちすると、不思議なことになぜだか事がうまく運び、物事が「決まる」。そんな謎の権力者のイメージ。
それは大袈裟としても、昔はそういう誰かとのコネクションを持っているということだけでとても強力な権力を握った人もいろいろいたようだ。
近現代史などを見ても、何をやった人なのか、どんなスキルがあったのかわからないのに、なぜか力あった人として名前が残っている(早晩忘れられるだろうが)人は、ほとんどそんなタイプの人のように見える。
■下がる単なる「紹介」の価値
そんな人達は、最近はほとんどいなくなった。
それは冒頭のような企業の尽力により、「紹介を受ける」ことが多くの人の手に入るものになったからということも大きいと思う。
フィクサーたちが、自分に利益をもたらすもののためだけに恣意的に紹介を行うことがなくなって、世の中がフェアになったと思う(まあ、抽象的にはリクルートもフィクサー機能だが、かかるコストは格段に違う)。
しかし、一方で、「紹介」という行為が軽くなりすぎたのではないかと思うこともある。
例えば、何でもかんでも紹介してくる人材紹介会社がいたりするが、その介在価値はなんだろうかと思う。
■軽くなった「紹介」の例
本来、公募で直接応募すればいい人達を一旦集め、フィルタリングすることもなく、どんどん人事に紹介する。場合によっては応募者本人の意思も確認せずに送って来る。これなどは、軽くなりすぎた「紹介」の良い例だと思う。
友人とかの紹介もそう。誰彼構わず人を結び付けようとしても、個々人には当然ながら趣味嗜好があるし、ランダムに集めた人達の場が盛り上がるかは疑問(なので僕はコンセプトの緩いパーティーとかは苦手なのです(涙))。
紹介「する」方だけでなく、紹介を「してもらう」方の意識もそれに比例するかのように緩くなっているような気がする。
真面目な紹介会社の真摯な努力を考えもせずに、募集をかけるだけかけておいて(成功報酬であることを良いことに)、紹介してもらった候補者をぞんざいに扱ったり、埋まったポジションの連絡を怠ったり、紹介会社へ適当で曖昧なフィードバックしかしない人事。
彼らの会社には、いい紹介が徐々に来なくなることだろう。
飲み会の人集めなどを人に依頼しておいて、紹介した後の結果を報告しない人。
紹介する方は「あの会に合うのかな」「場違いじゃないかな」などと、紹介する方される方双方に対して心配しながらも、そんな七面倒くさいことをしているにもかかわらず。
■人が人を紹介するということをもっと大事にしよう
ことほど左様に「紹介」というのは実は難しいバランス感覚が要求される行為であると思っている。
昔のフィクサーみたいなのが跋扈する世の中はもう結構だが、紹介が氾濫し過ぎて「悪貨が良貨を駆逐する」的に、本来「紹介」が持っている「与信」機能が無くなってしまっては、元も子も無い。Facebookなどが「本当の友人以外承認しないでください」などとメッセージするのはそういうことなんだろう。
人が人を紹介するという、貴重な行為の価値を、きちんと見据えて大事にしていかないと、杞憂かもしれないが、僕達の社会は、結局非効率で、幸運に左右される無秩序な世界に逆戻りしてしまうのではないか。
せっかく先人たちが万人のものにしてくれた「紹介」機能を、大事に磨いていかなくては、と思う。