北朝鮮から10人が漁船で韓国に集団亡命! 脱北者は再び続出するか?
北朝鮮は「新型コロナウイルス」期間中は感染を防ぐため中露との国境を封鎖し、人民の移動などを厳しく規制していたが、9月に中国の杭州で開かれるアジア大会に選手団の派遣を決めるなど徐々にではあるが、閉鎖状態から脱皮し、外に門戸を開きつつあるようだ。
そうした最中、韓国軍当局の発表によると、今月6日夜に北朝鮮の一般市民が小さな漁船に乗って海の軍事境界線と呼ばれている黄海上の北方限界線(NLL)を越え、韓国に亡命を求めてきたようだ。
詳細はまだ明らかにされていないが、子供も含まれていることから一家、家族ごとの亡命、それも延べ10人ということから2家族が同じ船に乗って一緒に北朝鮮から逃げてきたようだ。漁船を使った家族の集団亡命は2017年4月以来、実に6年ぶりである。
「脱北者」と呼ばれている韓国への亡命者は建国の父・金日成(キム・イルソン)主席の時代は1990年に9人、93年に8人と、一桁だった。それが、金主席死去後の1994年には54人と二桁になり、食糧危機に瀕した1999年には三桁の148人に上った。
金大中(キム・デジュン)大統領が韓国の大統領としては史上初めて平壌を訪問し、後継者の金正日(キム・ジョンイル)総書記と首脳会談を行い、経済支援を始めた2000年は前年の約2倍強の312人が韓国に渡り、また、小泉純一郎首相が訪朝し、北朝鮮に60万トンのコメ支援を行った2002年にはなんと4桁の1142人達し、2009年には過去最多の2927人を記録した。
統計を取ると、金正日体制(1994~2011年)の17年間で延べ10719人が韓国での新生活を求め、北朝鮮を後にしていた。
世代が変わっても脱北者は後を絶つことなく、3代目の金正恩(キム・ジョンウン)総書記が祖父生誕100周年記念式典に登場し、演説で「我が人民が二度とベルトを締めることのなく社会主義富貴栄華を思う存分享受できるようにするのが我が党の確固たる決心である」と誓った2012年は脱北者は2000人を切って、1508人に留まったが、「コロナ」で国境を封鎖するまでの2019年までの8年間で父親の在任中の人数とほぼ変わらない10423人の脱北者を出した
「コロナ」下の2020年は229人、2021年は63人、2022年は67人、そして今年は5月6日現在、まだ43人だが、仮に飢餓者が発生するぐらい北朝鮮の食糧事情が深刻ならば、今回の家族亡命を機に脱北者が続出し、そのうちに「コロナ」以前(4桁)に回帰するかもしれない。
今回の亡命の理由が生活苦によるものなのか、あるいは政治的な理由なのか、現在、事情聴取中にあるが、どちらにせよ、北朝鮮では生きていけないから、あるいは将来も未来もないから北朝鮮を脱出したのは間違いない。
単独とは違って、また中国との陸ルートではなく,海上からの船による集団脱出は用意ではない。仮に村の人に密告されれば、あるいは途中で警備艇に拿捕、拘束されれば、まさに一巻の終わりである。これまでも成功したケースは5~6件しかない。どれもこれも命を懸けた逃亡劇だった。
そのうちの1件が今から26年前の1997年5月12日に2家族、併せて14人が仁川港に上陸したケースで、当時金ウォンヒョンさんの家族8人と知人の安ソングックさんの家族6人は2日前の10日夜に平安北道の鉄山の漁業基地に停泊していた小さな木造船に乗り込み、12日午後、大シケの海で船が大きく破損し、沈みかけていたところを韓国の軍艦に保護された。
韓国に定着した直後に金ウォンヒョン(57歳)一家をソウルでインタビューしたことがあるが、家族の中には1歳6か月の孫が含まれていたことには正直驚かされた。金氏の妻(53歳)は当時の船の中の様子を筆者に以下のように打ち明けていた。
「女性らは「『とにかくじっと静かにして、我慢しなさい』と言われていたので船の底にある高さ1メートルぐらいの狭い部屋でじっとしていました。出港して、沖に出るまでは外部の人間に気づかれないように扉を閉め切っていましたから蒸し暑いし、息苦しいし、孫は泣き続けるしで地獄のようでした。心配していたとおり、孫が泣き止まずぐずり続けた時はあの時は迷わずに置いてくるべきだったと何度も思いました。嫁も本当に辛かったと思います。今思うと、こんな苦難の脱出を乗り切れたのは、やはり一家全員で脱出するという決意の固さ以外のなにものでもありません。海の上で『もう限界だ』という時に支えになったのは『死ぬときはみんな一緒だ』『死んでも帰るまい』『死ぬならここで死ぬ』という覚悟があったからです」
長男の嫁は在日帰国者の娘で、「親兄弟を裏切って、一人脱北するのに抵抗感があった」と悩んだそうだが、結局は幼子を抱え、夫について行くことを決心。しかし、成功するまでは苦難の連続で、途中何度も「(北朝鮮に)子供と残っていれば良かった」と心がくじけ、後悔したそうだ。
「子供が泣いた時に備え一応、睡眠薬ではなく、幼児用のディメドロールという鎮痛剤を用意しました。11日の早朝、船が出る前に子供が鳴き声を上げ始めました。全員うとうとしていた時でしたから、子供の泣き声でたたき起こされたので全員不機嫌な顔でこちらを見てました。私は何とか、泣き止んで欲しいと念じながら、汗だくでした。しかし、いっこうに泣き止みませんでした。そのうち私の汗が子供の顔に落ちるようになり、さらに鳴き声は大きくなりました。その時、部屋の扉が開き、押し殺した声で『静かにしろ、外に聞こえるぞ!』と義父が一喝したのです。義理妹が手際よく鎮痛剤を注射し、子供は眠りに落ちました。やがて船はエンジンを響かせながら岸を離れ、海岸線に沿って北上し始めたのですが、まずは警備所を通らなければなりません。船底にいた私たちは全員が船酔いに襲われ、猛烈な吐き気に苦しんでいました。間もなくすると、船が止まり、警備員が乗り込んできました。扉が閉まったままなので部屋の中は果物が腐ったような匂いがどんどん強くなってきました。しかし、警備員がいるので扉を開けるわけにはいきません。みんな息をこらしていましたが、突然、子供がぐずり始めたのです。反射的に子供の口を押させ、義理妹はまた鎮痛剤を取り出しましたが、これ以上、鎮痛剤を打たせたくなく、その時は本当に困りました。最大のピンチでした」
ちなみに男は全員、発覚した場合、警備員らと格闘するための武器を隠し持ち、また女性らはいざとなったら、自ら命を絶つため毒薬を用意していたというからまさに命懸けの脱出だったと言える。