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「よすぎる未来を想像しなくなりました」宮市亮、続く大ケガも父親として諦めて終われないと奮起した復活

元川悦子スポーツジャーナリスト
サッカーができる喜びを全身で示す宮市亮(撮影=倉増崇史)

 約1年前の2022年7月27日に行われたEAFF E-1選手権決勝大会・韓国戦(豊田)。後半31分、右サイドを駆け上がった宮市亮(横浜F・マリノス)が対面のキム・ジンスと交錯し倒れこんだ。しばらく立ち上がれない。再び、右ひざ前十字じん帯断裂という重傷を負った。10年ぶりの代表復帰戦での、人生4度目のひざの大ケガだった。

「『次に大きなケガをしたら、その時はもう辞める時だ』と心のどこかでずっと思っていた。だから『ああ、その時が来たんだ』と感じました」と宮市は当時の悲痛な胸の内を吐露する。

 一時は絶望の淵に瀕したが、不屈の快足FWは周囲の支えで少しずつ前向きなマインドを取り戻し、苦痛と闘いを撥ね退け、2023年5月に堂々とピッチに戻ってきた。

 完全復活の象徴となったのが、6月10日の柏レイソル戦の決勝弾だ。

「ホントにいろんな人の思いが乗ったゴールだった」と神妙な面持ちで言う。

 幾度の悲運を乗り越え、勇敢に戦い続ける男に紆余曲折の復活劇について改めて聞いた。

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柏戦のゴールは神様のプレゼント

──5月24日のYBCルヴァンカップ・コンサドーレ札幌戦で公式戦復帰、6月10日の柏戦で今季初ゴールと順調な一歩を踏み出したように見えますが、現状はいかがですか?

「チームが徐々にフィットさせてくれるような起用をしてくれていますし、自分も使われた時間にやれることをやろうと役割を整理して入っているので、本当にいい形で戻ってこれているかなと。衝突の恐怖心とかも全くないですね。プロとしてやる以上は当然のことですけど」

──柏戦のゴールは神様のプレゼント?

「ホントにそうですね。後半ロスタイムにマルコス(・ジュニオール)のラストパスを押し込む形でしたけど、あそこは別に入らなくてもいい場面(苦笑)。その前にレイソルのシュートがバーに当たるシーンもあったし、それが入らなくて、自分に最後のシーンが流れてきたっていうのは奇跡的なこと。チームのみんなとサポーターと喜びを分かち合えたのが何よりでした」

戻ってきた宮市にマリノスの仲間たちが手厚い祝福
戻ってきた宮市にマリノスの仲間たちが手厚い祝福写真:YUTAKA/アフロスポーツ

──改めて1年前の日韓戦の時から振り返りたいんですが、ケガ当日の心境は?

「試合後の夜、病院へ行ってMRIを撮って、予想通り『断裂』だと聞きました。ホテルに戻って代表のみんなと記念写真は撮りましたけど、その晩は一睡もできず、出発まで太陽を見ることもなかったですね。

『俺、この先どうするんだろうな』『辞めてどうしようかな』といった考えが浮かんでは消える状態。翌日、新横浜までマリノスのトレーナーさんに迎えに来てもらったけど、『俺、辞めますわ』と言ってたくらいです(苦笑)」

──人生4度目のひざの大ケガに見舞われた宮市選手のショックは想像を絶するものがあります。反響は本当に大きく、応援する人は後を絶たなかった。

「そうですね。自分のSNSにも何万、何十万っていう凄まじい数のメッセージが届いていてビックリしました。目を通せるだけ通しましたけど、『戻ってきて』『待ってるぞ』という言葉が有難かったし、心に響きました。

 いろんな仲間からも連絡をもらいました。内田篤人さん(JFAロールモデルコーチ)や吉田麻也さんはもちろんのこと、中京大中京高校の同級生である広島東洋カープの磯村(嘉孝)、フィギュアスケートの木原龍一も励ましのメッセージをくれました。

 宇佐美(貴史=G大阪)からもすぐに電話が来ました。あの時は彼もアキレス腱断裂でリハビリ中だったのに、『4度目やろ。俺ならもう引退してるわ。でも、また一緒に頑張ろうな』って明るく声をかけてくれた。あいつは男気があるんです(笑)。僕らの世代の先頭を走ってきた選手からの励ましの言葉はすごく嬉しかった。もちろん(柴崎)岳や(杉本)健勇(横浜)からも連絡をもらって、同期の絆を感じましたね」

アキレス断裂の宇佐美貴史からの激励、そしてマリノスサポーターの横断幕

──受傷3日後の7月30日の鹿島アントラーズ戦の際には、サポーターに挨拶に行きました。

「はい。(昨季までつけていた)背番号17のユニフォームを着た人が数えきれないほどいて、激励のメッセージが書かれた横断幕も沢山出ていた。『もう一度、このピッチに立ちたい。マリノスのユニフォームを着て戻ってきたいな』と心底、思いましたね。

 (ドイツの)ザンクトパウリにいた時も、僕がケガをした時に多くのファンが『You'll never walk alone』と書かれた13番のユニフォームを作ってくれて、すごく嬉しかったし、契約も1年延長してくれた。それも粋に感じましたけど、マリノスでは日本人の温かさというものを再認識させられた。Jリーグでプレーしたことがなかった分、僕にとっては大きな出来事でしたし、マリノスに来れてよかったとしみじみ感じた瞬間でした」

ザンクトパウリ時代にサポーターから掲げられた激励の横断幕
ザンクトパウリ時代にサポーターから掲げられた激励の横断幕写真:アフロ

──それを経て8月2日の手術に踏み切ったと。

「そうですね。僕は高校を出て、すぐ欧州に渡ってから『ステップアップしてやろう』って自分のキャリアのためにやってきました。でも今回はそうじゃなかった。『支えてくれるみなさんの気持ちに応えたい』『恩返ししたい』と。そのために復帰するんだと決意して、手術に踏み切りました。

 とはいえ、手術後は気持ち悪いし、吐き気もするし、1カ月くらいは歩くだけで精一杯。病院の天井を見ながら『ホントに戻れるんだろうか』『この長いリハビリをもう1回、頑張れるのかな』と不安がこみ上げてきました。今までの経験もあって、時間が経過すればある程度、治るのは治ると分かってはいたものの、プロアスリートとしてまたピッチに戻らないといけない。生半可な気持ちじゃダメなんで、葛藤はありましたね」

一番近くで寄り添ってくれた子供たち

──そういう時に寄り添ってくれたのは?

「家族です。特に年長の息子(6歳)と年少の娘(4歳)ですね。『パパ、大丈夫?』『練習行かないの?』『すごい足の色してるね』とストレートに言うんです。ザンクトパウリで負傷した頃と違って、子供たちに心配されるんで、『父親としてこのまま諦めて終われないな』という気持ちになりました。『強くなって戻りたい。これでもしパフォーマンスが戻らなかったら、次こそホントに辞める時だ』と腹も括れた。家族の存在はすごく大きかったですね」

──リハビリが本格的に始まったのは?

「9月かな。マリノスのスーパートレーナーのサポートがあって、少しずつ回復していきました。でもリハビリは地道な作業でしょ。『こんなのやってられないよ』とイラついたりすることは何度もありました。

 細かいピースをハメていく作業はホントにしんどい。一進一退はどの人生にも当てはまることかなと思います。それを受け入れられなかったり、立ち上がれなかったりする時期があっても当然。僕もそうでした。だけど、結局は『やるしかないな』と前を向く。そうやって前進していくことが大切なんです」

──その通りですね。一番辛かった時期は?

「12月頃です。だいぶ走れるようになって、ボールも少しずつ蹴り始めていたんですけど、筋力が戻ってこなかった。ひざもすごく痛むし、『これを続けていてホントによくなるのかな』と疑心暗鬼になりました」

2022年7月のE-1選手権でプレーしていた頃、こんな苦しみを味わうとは予想しなかったはずだ
2022年7月のE-1選手権でプレーしていた頃、こんな苦しみを味わうとは予想しなかったはずだ写真:YUTAKA/アフロスポーツ

日本がドイツ・スペインを撃破していた頃、辛いリハビリで苦悩

──ちょうど日本代表が2022年カタールワールドカップに挑んでいた真っ最中です。

「代表に関しては、いちサポーターとして見ていましたよ。苛立ちは単純に自分のリハビリに対してですね。そういう時にトレーナーさんが『絶対によくなるから』と何度もポジティブな言葉をかけてくれた。それを信じて取り組むしかなかった。その成果もあって、年明けのキャンプからは少しずつよくなっていきました。

 初めて右足で踏ん張って左足で蹴った時には『もう1回切れちゃうんじゃないか』という不安もあったかな(苦笑)。3月頃にも全体練習に合流していたのにリバウンドが起きた。大きいケガをするとアップダウンはつきものなんですけど、『またか』と思いながら、何とか自分を奮い立たせていったんです」

──本当に気の遠くなるような作業ですね。

「だから、僕は『よすぎる未来』を想像しなくなりました。若い頃は輝かしい将来を思い描いて、ガムシャラに突き進んでいましたけど、体とメンタルのギャップがあって整わなくて、ケガをしてどん底まで落ちるという繰り返しだった。そういう経験があるから、つねに気を引き締めながらやるようになりました。『調子のいい時こそ気をつけろ』じゃないけど何事も慎重にやろうと。一歩でも成長することに集中していれば、過去や昔の自分、他の人のことは気にならなくなりますからね」

──それが30歳になった宮市亮ですか?

「そうかもしれません。ホントに『比較』をすることがなくなりましたし、今を見て生きられるようになった。それには善し悪しもあるでしょうけど、日々の健康や練習、サッカーできる時間が何よりも大事。その積み重ねの先にキャリアや結果がついてくるんです。

 公式戦に復帰できて、またピッチでボールを蹴られる今の状況は、僕にとっては『ギフト』みたいなもの。有難く感じています」

──不屈の闘志の持ち主である宮市選手に心揺さぶられる人々は少なくありません。

「僕自身はそんなのおこがましいですし、影響を与えようと思ってはいませんよ(笑)。ただただ、恩返しすることだけを頭に入れてプレーしています。

 マリノスでは今、途中から出る『ゲームチェンジャー』という役割を担ってますけど、一緒に出ることの多い水沼(宏太)選手の底なしの明るさに救われることがすごく多いですね。『俺らで絶対、ゲームを変えような』って声を掛け合って、一緒にひっくり返した試合もいくつかある。楽しんでやれていますし、自分も徐々にその仕事にフィットしてきたかなと感じます。それを積み上げて行った先に見えるものが優勝だと思う。一つ一つ、確実にクリアしていくことが大事なんですよ」

久里浜の練習場で必死にコンディションを上げる宮市(筆者撮影)
久里浜の練習場で必死にコンディションを上げる宮市(筆者撮影)

 イングランド・ヴィガン時代の2012年夏の右足首負傷に始まり、ザンクトパウリ入り直後の2015年夏の左ひざ前十字じん帯断裂、2017年の右ひざ前十字じん帯断裂など度重なる大ケガを乗り越えた宮市は実に晴れ晴れとした表情を見せていた。復活を果たすたびに強くなり自分らしくなる、というのは間違いないだろう。

 イングランドの名門アーセナルへの加入が決まった2010年段階で我々が宮市に描いていたキャリアとは異なるものになったかもしれないが、彼のサッカー人生にはまだまだ先がある。ここからが本当の意味でのピークかもしれないのだ。そうなるように宮市にはどこまでも貪欲に前へ前へと突き進んでほしい。爆発的スピードという武器で多くの人を魅了し続けてくれることを切に願いたい。

■宮市亮

1992年12月14日生まれ。愛知県名古屋市出身。小学3年からサッカーを始め、愛知・中京大中京高2年時にU―17W杯出場。2010年12月にイングランド・プレミアリーグのアーセナルに入団。Jリーグを経験せず、プレミアリーグのクラブと契約を結んだ初めての日本人選手となる。2011年1月、オランダ1部のフェイエノールトに期限付き移籍。その後、プレミアリーグのボルトン、ウィガン、オランダ1部のトゥウェンテへのレンタル移籍を経験。2015年夏にドイツ2部のザンクトパウリに完全移籍。2021年7月、10年以上を過ごした欧州を離れ、JリーグJ1の横浜F・マリノスに完全移籍。2022年7月に再び大ケガを負ったが、2023年5月に復帰した。

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スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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