「コミュニケーション能力偏重」が組織をじわじわ崩壊させる4つの問題
■企業はコミュニケーション能力を求めているが
現代社会では、多くの人や企業や学校が「コミュニケーション能力」が必要だと言っています。経団連が毎年行っている「新卒採用に関するアンケート調査」でも「選考時に重視する要素」という項目があり、そこでは16年連続で「コミュニケーション能力」がトップとなっています。
しかし、この「コミュニケーション能力」とは一体何を指すのでしょうか。筋道を立てて分かりやすく話ができるような論理性に近いものなのか、よい具体例を出して相手にきちんとイメージさせることができるような表現力に近いものなのか、それによって意味合いは全く異なります。実際、経営者や人事担当者は、かなり多様な意味合いで「コミュニケーション能力」と言っています。
■最も多い「コミュニケーション能力」の定義とは
私は様々な企業で人事コンサルティングをさせていただいているのですが、採用での「求める人物像」や、評価基準を作るときのハイパフォーマーの特徴の議論などをする際にも、この「コミュニケーション能力」はよく出てくるワードです。そして、その都度、「それはどういう意味で使っているのか」を確かめます。
もちろん、いろいろな定義で使われているのですが、その中で圧倒的に多いものがあります。それは「相手が言っていないことを想像して、相手が言おうとしていることを理解する力」という定義です。実際、我が国には「一を聞いて十を知る」「以心伝心」「あうんの呼吸」「空気を読む」などの慣用句がありますが、これらはすべて上述の「コミュニケーション能力」とほぼ同義です。
■「空気を読む力」を重視している
つまり、多くの企業で「コミュニケーション能力のある人」とみなされて高く評価されているのは、「空気が読める人」ということになります。共通した文化的背景を多分に持つ、いわゆるハイコンテクストな文化の日本においては、細かいことを明確に言わなくても、相手のことを理解して動いてくれる人は確かに便利です。優秀とみなされるのも分かります。
しかし、昨今の企業を取り囲む環境の変化を考えると、今までのようにこの「空気を読む力」を重視していると危ないのではないかと、私は思います。なぜなら、「空気を読む力」を持つ人が増えると、組織に様々なデメリットが生じる可能性があるからです。
(問題その1)変えにくい「不文律」ができあがる
まず、お互いに空気を読みあって合意形成をしていくと、そこでできあがった「ルール」は、正式な意思決定プロセスを踏まえず、明文化もされていない「不文律」になります。そしてこの「不文律」こそが、最も組織の中で変えにくい、悪い場合は組織を蝕んでいく元凶なのです。
最近「アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)」などと言われて注目されてきているものも、不文律の一種です。意識できていなければ変えようがありませんし、正式なものでないがゆえに、そもそも「変える」ためのフォーマルな手続きがありません。この会社ではどういう人が評価されるのか、どういう行為は非難されるのかなどという、社員の行動を決める根本となるような基準が「不文律」であっては、組織を適切にコントロールできなくなってしまいます。
(問題その2)ダイバーシティがなくなっていく
デメリットは他にもあります。空気が読める人が多くなると、空気が読めない人の居場所がなくなります。同じようなコンテクストを共有していなければ正確なコミュニケーションが取れなくなるため、よく組織変革に必要な「異分子」だと言われる「よそ者・若者・ばか者」が排除されてしまいます。そのために、組織の多様性が失われて同質化し、変化対応力を失っていきます。また、ダイバーシティ(多様性)がなくなっていけば、現代ほどクリエイティビティが必要な時代がないにもかかわらず、似たような発想の人ばかりになり、組織の創造性も失われていく可能性があります。
(問題その3)ファクトではなく、ファンタジーに支配される
「空気を読む力」は、逆の言い方をすれば、「突き詰めない」ことです。トヨタ生産方式などでおなじみの5whys(なぜを5回繰り返すと真因に突き当たる)などのように、しつこく質問を繰り返して真実に到達するということがなくなります。ファクト(事実)を突き詰めずに、なんとなくの支配的な主観、つまりファンタジーや幻想のままで物事を考えて、決めて、実行していくことになります。
言うまでもなく、世の中は結局ファクトに基づいて動いていきます。それなのに、ファクトベースで物を考えなくなれば、そこからできあがった戦略や事業はうまくいくはずがありません。
(問題その4)忖度が発生する
そして、最大の問題は、近年流行語にもなった「忖度」(相手の気持ちを推し量って、相手が言わずとも望むように動くこと)が発生することです。特に、権力者に対する忖度は危険です。組織における権力者である経営者や上司の視点にちゃんと立てる人はまれです。それなのに、「上司はこうしてほしいに違いない」と勝手に忖度して動いていくと、間違った方向に組織が進む可能性があります。
その忖度が当たっている場合でも問題です。経営者や上司などのリーダーは、忖度されることに慣れてしまうと、明確な指示をしなくなっていきます。明確な指示には明確な責任が伴いますが、指示せずに部下が勝手に動いたことについては曖昧な責任(任命責任など)しかなくなり、責任逃れがしやすくなるからです。責任を取らなくて済むとき、リーダーの判断は覚悟のない曖昧なものになっていきます。
■「物分かりの悪い集団」ぐらいがちょうどよい
そう考えていくと、組織などというものは、相手の言っていることをきちんとしつこく確認しながら理解をしていくような「物分かりの悪い集団」であるぐらいのほうがちょうどよいのではないかと思います。くどいぐらい説明をしなければ分からないという状態は、説明する人を鍛えますし、アイデア自体も説明をしていくうちに磨かれます。
また、本稿で挙げたような「不文律の発生」「ダイバーシティの減少」「ファクトベースでなくなる」「忖度」などの組織悪も生じることはありません。日頃のコミュニケーションの円滑さや快適さは多少なくなるかもしれませんが、組織にとって何が重要かを考えれば、どちらがよいのかは明白ではないでしょうか。
■快適な面接にご注意
組織を「物分かりの悪い」状態にするには、採用面接での「コミュニケーション能力」重視を改めるべきです。心地よいコミュニケーションだと感じる「空気を読む力」を過剰に重視しないことです。
意識しなければ、人は自分が言いたいことを慮ってくれる人を高く評価してしまいます。そうではなくて、くどいぐらいに話の内容を確認してくる人や、質問の意図をきちんと聞き直すような人を「分からず屋」と低評価にするのではなく「丁寧な人」「正確さを重視する人」「誠実な人」などと認識し直して、高く評価しなければなりません。自分にとって不快なコミュニケーションを取る人を、即座に排除してはいけないのです。そうすることで適切な「異分子」が社内に存在することになり、組織の健全性が保たれるのではないでしょうか。
※HR Zineより転載・改訂