ジブリ作品は聖地巡礼できない? 関係ない場所に「ジブリっぽさ」を感じる私たちの感性
本日から3週に渡って、日本テレビ「金曜ロードショー」でスタジオジブリ作品の放映が予定されている。それぞれの作品に魅力的な世界観が構築されているジブリ作品だが、受け手が感じる「ジブリっぽさ」とは何だろうか。
SNSには「#ジブリっぽい」というハッシュタグもあり、ジブリに関わる場所や物の写真がタグ付けされる一方、直接関係のないものもある。
「ジブリっぽい」がいっぱい?
読者のみなさんは、「ジブリっぽさ」について考えたことがあるだろうか?
筆者は美しい景色や特徴的な建物を見ると「ジブリっぽい」と思うことがある。
インスタグラムにも「#ジブリ」や「#ジブリっぽい」といったハッシュタグがある。もちろん、三鷹の森ジブリ美術館をはじめ、ジブリに直接関わる場所や物の写真もある。
だが、それと同じくらい、ジブリとは直接関係ないが、ジブリっぽさを感じる場所があり、各地に「トトロと出会える場所」や「ラピュタを体験できる場所」が発見されている。例えば「トトロのいそうな森の小径」というタイトルで、次のような写真がデータベースに登録されていたりする。
大袈裟かもしれないが、ジブリっぽさを見出す感性は、多くの日本人に刷り込まれているようだ。とはいえ、ジブリっぽさにも様々なものがある。筆者自身は3つのパターンがあるように感じる。
ジブリっぽさ:ヨーロッパ系
次の3枚の写真は、いずれも旧ユーゴスラビアで撮影したものだ。
2枚目はスロヴェニアの首都リュブリャナである。
3枚目はボスニア・ヘルツェゴビナの街モスタルだ。内戦によって荒廃したが、急速に復興が進んだ街である。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の礼拝施設が数多く併存する景観が特徴的で、美しいアーチを描く橋「スタリ・モスト」は世界遺産にも登録された。
パリやロンドンといった大都会より、やや周縁的と見なされるヨーロッパの街並みがジブリっぽさを感じさせる。
ジブリっぽさ:和風系
こうしたヨーロッパ系に対して和風系がある。
いずれも東北地方で撮影したものだ。
『千と千尋の神隠し』や『もののけ姫』といった日本が舞台の作品では、神々や精霊が重要なモチーフになる。
宮崎駿監督は、鎮守の森にはなにかいそうな感じがして好きと語っているが(宮崎駿『折り返し地点―1997〜2008』岩波書店、2008年)、この「なにかいそう」というのがポイントだろう。
日本の宗教文化の基盤の一つであるアニミズムは、世界の様々なところに「なにか」を見出す宗教的感性だ。台風や雷を見てはそれを司る風神雷神といった人格神を想像し、滝や巨木には、そこに宿る神々を見出す。
したがって、同じ鳥居でも、あまりに立派でメンテナンスされているものより、長く据え置かれ、少し朽ち始めているくらいの方が、なにかが住んでいそうでジブリっぽい。
ジブリっぽさ:自然系
そして最後が自然系である。
「なにかがいそう」な感じを自然そのものに見出すパターンだ。
いずれも登山やトレッキングをする方であれば珍しい風景ではないだろう。
3枚目は、千葉県君津市の清水渓流広場にある「濃溝の滝」だ。
洞窟部分に太陽の光が差し込むと、それが水面に反射してハート型になる。映える写真が撮れる場所として、主にSNSを通じて知られるようになった。
いくつかの旅行案内サイトでは、濃溝の滝も「ジブリの世界」として紹介されている。濃溝の滝は、自然にできたものではなく、農業用水の確保のために、江戸時代に造られたものだ。自然に人の手が加わった痕跡があると、よりジブリっぽさが増すように思われる。
聖地巡礼できないジブリ作品
なぜ、ジブリっぽさは様々な場所に見出されるのだろうか。
アニメや映画の舞台となった場所を訪れる聖地巡礼は、現在、最も人気のある観光実践の一つである。
今年の例でいえば、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開されて間もなく、庵野秀明監督の故郷でもある山口県宇部市を多くのファンが訪れた。
舞台となった場所に実際に身を置くことで、より深く作品世界を味わいたいというのは、ファンとしては当然の欲望だ。最近では、当初から聖地化による観光振興を目論んで作品が制作される場合もあるようだ。
観光学では、こうしたプロセスを、特定の場所にマークが付けられた結果、その場所が見るべきアトラクションとして人々を駆り立てるようになったと理解する。
マークは物語でなくとも良い。一定以上の世代の人はお分かりになると思うが、例えば「Windows XPの丘」だ。
カリフォルニアのあの丘は確かに美しいが、美しい丘は無数に存在する。
だが、世界中で使われるソフトの初期設定の背景に選ばれたことで、あの丘は特別なアトラクションとしてマークされ、Googleマップにも「Windows XP Hill」という「観光名所」として登録されている。
ところが、ジブリ作品の場合、どこかの場所を聖地とすることが難しい。
特にアニメ聖地巡礼では、作品に描かれたのとほとんど重なる現実の風景を探し出すのが醍醐味だが、ジブリ作品には、そうした意味での舞台はあまり存在しない。
公式サイトでも、特定の場所が舞台と言える作品は多くなく、「実際に訪ねられても全く同じ風景に出会うことはないと思います」と明言されている。
そして、「ここが、舞台といえるもの」と「大いに参考にした場所」の2つのリストが掲載されているが、『風立ちぬ』は「東京・名古屋・軽井沢・上高地・八ヶ岳・前田家別邸(熊本県)など」、『思い出のマーニー』は「札幌・釧路湿原」、『紅の豚』は「アドリア海沿岸」、『もののけ姫』は「屋久島、白神山地」といったように漠然としている。
2つの本物性
それにもかかわらず、なぜ、いたるところにジブリっぽさが発見されるのだろうか。
社会学者の鈴木謙介氏は、特にSNSが発達した現代社会において、ある観光対象が本物とされるのには2つのパターンがあるとし、横浜の「赤レンガ倉庫」と新横浜の「ラーメン博物館」を例に挙げる(「ソーシャルメディアとオーセンティシティの構築」『観光学評論』7(1)、2019年)。
横浜赤レンガ倉庫は、明治から大正にかけて、横浜税関の倉庫として建造されたものだ。実際に倉庫として使用されていた歴史的建造物が文化施設・商業施設として再利用されており、「この建物はほんものの倉庫だった」という意味での本物性を備えている。
それに対して、新横浜ラーメン博物館は、内部に昭和30年代の街並みが再現されているが、かつてそうした街並みが実際に存在していたわけではない。
しかし、細部まで作り込まれたラーメン博物館には、昭和30年代の生活用品が配置され、スタッフも当時の人々を演じる。つまり、私たちの昭和30年代イメージと合致している点で本物性を備えているのである。
鈴木氏の議論を踏まえれば、「現実の再利用」という本物性と、「雰囲気やイメージの再現」という本物性があると言える。
そして、多くの聖地巡礼は前者を核とする。作中で再利用された現実を探し求めるのだ。
Windows XPの丘のような丘は日本国内にも存在するかもしれない。だが、どれほど似ていても、カリフォルニア州のあの丘が本物であり、唯一無二である。
一方、ジブリ作品の場合、制作側が、作品内で再利用された現実は存在しないことを明言している。唯一無二の現実の舞台は特定不可能なのである。
現実にないからこそ、あらゆる場所が「ジブリっぽい」
面白いのは、ジブリ作品が国民的人気を誇るからこそ、ジブリっぽさをめぐる共通イメージが、スタジオジブリを離れたところで、自然と作られてきたことである。
台湾の街・九份(きゅうふん)と聞くだけで、あるジブリ作品を思い出す人もいるだろう。
九份は、かつて金鉱で栄えた街で、侯孝賢監督の映画『悲情城市』(1989年)が撮影された。この作品は、ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受賞するなど名作として知られ、九份は同作のまぎれもない聖地だ。再利用された現実という本物性を備えている。
しかし、多くの日本人にとっては、九份といえば、『千と千尋の神隠し』ではないだろうか。赤い提灯に飾られた建物が、湯屋を思い出させる。
ANAのウェブサイトでは、「千と千尋の世界へ!台湾、九份を訪れるなら夕暮れどきがベストタイム」というタイトルで紹介され、「あの景色」を見るには、日没前後が狙い目であり、そのための移動スケジュールも案内されている。阪急交通社のウェブサイトに掲載される九份の観光マップでも、阿妹茶楼に「ジブリ映画のモデル?」という文章が添えられている。
先のスタジオジブリのリストでは、『千と千尋の神隠し』については、「大いに参考にした場所」として「江戸東京たてもの園」だけが記載されている。
作品に対応する現実は、やはり、どこにも存在しないのだ。
しかし、だからこそ、いたるところに、それぞれが感じるジブリっぽさが発見されてゆく。この記事を書くための画像データベースでは、「千と千尋」で検索すると、上の九份とともに道後温泉の写真もヒットする。
作品世界と対応する現実がないことが明言されているがゆえに、あらゆる場所がジブリっぽく読み込まれうるのである。
一般的には、作品世界の説得力や現実性を高めるために実際の風景が流用される。それに対して、ジブリ作品の場合は、フィクションが現実の見え方を変えてしまうほどに魅力的な世界観を打ち出しているのである。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】