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なぜ平将門は現代でも「祟る」のか?近代に翻弄されたビジネス街の神

岡本亮輔宗教学者・観光学者、北海道大学大学院教授
将門塚のカエル(筆者撮影)

東京・大手町にある平将門を祀る首塚、「将門塚」の改修工事が始まった。

将門は一般に「日本三大怨霊」の一人とされる。

工事が始まって、まもなく茨城県沖を震源とする地震が発生し、将門の祟りではないかといったことも、まことしやかにささやかれている。

なぜ将門は祟るのか?それは無念の死を遂げたというだけでなく、日本の近代化にも翻弄された神だからではないだろうか。

各地に眠る将門の身体、その理由

940年、将門は、現在の茨城県坂東市岩井付近で討ち死にする。

その後、首は平安京へ運ばれ、都大路で晒された。

しかし、数日経つと将門の首は空を飛び、切り離された体を求めて東国に舞い戻ったという伝承があり、それを祀ったのが将門塚とされる。

首から下はどうなったのかというと、その胴体は、亡くなった場所から近い寺に埋葬されたという。

他にも、将門の腕や足、兜や鎧を祀った寺社が各地にある。

要するに、将門は、その身体を徹底的に分断されて祀られたというのである。

こうした埋葬は支解分葬と呼ばれる。強い霊を鎮めるための埋葬法だ。

水死・焼死・自死などを遂げた変死者は凶霊になると信じられ、それを鎮めるのと同じ方法が将門に適用されたのだ。

死体を幾つかに斬り離し、異なる場所に埋めて凶霊の発散を防いだのである。

将門塚(筆者撮影)
将門塚(筆者撮影)

なぜ将門は祟り続けるのか?

しかし、こうした伝承だけであれば、崇徳天皇や菅原道真と同じく、将門も過去の怨霊にすぎないはずだ。

白峯神宮の近くで工事をしようとしたら事故が起きた、湯島天神の周囲のオフィスでは神社に背を向けないようにデスクが配置されているといった話は聞かない。白峯神宮はサッカーなどスポーツの神様、湯島天神は受験の神様として人気である。

非業の死を遂げた人物の中で、なぜ将門だけは今でも祟るのか。

その理由は東京を代表する神社と関係している。

現在、将門塚があるあたりには、かつて神田明神があった。

同社伝によれば、730年に創建されたが、天変地異があいついだことから、1309年に将門も祀られるようになった。

その後、神田明神は坂東武者(関東生まれの武士)のシンボルとして、太田道灌や北条氏綱といった関東の覇者に崇敬されるようになる。

そして重要なのは、神田明神が江戸幕府とのつながりを深めたことだ。

徳川家康が関ヶ原の前に戦勝祈願をしたことをきっかけに、神田明神は幕府公認の江戸総鎮守となり、1616年、江戸城の表鬼門にあたる現在地に遷されたのである。

しかし、250年後、江戸幕府との蜜月が裏目に出る。

明治新政府からすれば、神田明神は旧体制の幕府に贔屓された神社であり、さらに将門は「新皇」を自称し、天皇に反逆した朝敵に他ならない。その結果、1874年、将門は神田明神の本殿から外されたのである。

とはいえ、東京の人々はこうした措置に納得しない。

神田明神は、幕府公認の聖地であるとともに、江戸庶民からの信仰も篤く、百戦錬磨の関東武者である将門の人気は高かった。

その抗議として、天下祭と称された神田祭が10年に渡って中止されるなどした。

そして、将門の祟りが語られる。

将門塚は関東大震災で倒壊し、跡地に旧大蔵省の仮庁舎が建設されることになったが、大蔵省の職員や関係者が相次いで亡くなり、祟りと噂された。

そこで1928年には、旧大蔵省主催で鎮魂祭が行われた。神田明神宮司、同社と同じく将門鎮魂を担ってきた浅草日輪寺の住職が招待され、当時の蔵相も臨席している。

1941年にも、再び将門の鎮魂が行われた。旧大蔵省が落雷で火事になったこと、蔵相経験者が2人暗殺されたことが祟りとされた。亡くなったのは、血盟団事件に斃れた井上準之助と2・26事件で青年将校に撃たれた高橋是清である。この時は、震災で壊れた碑が再建され、地鎮祭が執り行われている。

大手町という場所柄、将門塚の周りには、常に政治家や官僚をはじめとする重要人物がいる。

将門塚はその中枢に打ち込まれた楔であり、政府や権力に対する庶民の批判が高まると、それを熱源にして祟るのではないだろうか。

将門塚のカエル(筆者撮影)
将門塚のカエル(筆者撮影)

大河ドラマによる復権、そしてビジネス街の聖地へ

現在、将門は神田明神の三之宮に祀られているが、復権のきっかけは1976年に放映されたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』である。

国民的ドラマによる人気急上昇は、将門塚にも影響を与えた。それまで賽銭が置かれることなどなかったが、将門塚の賽銭管理のための口座が、旧三和銀行に開設されるほどであった。

面白いのは、将門塚が大手町という日本でもっとも都市的な環境の中で、独自の崇敬者を集めたことである。

言うまでもなく、将門塚の周りに住民はいない。氏子のような地域的な信奉者は皆無なのである。

代わりに将門塚を支えるのが、それらオフィスビルで働くビジネスパーソンたちだ。

1960年に将門塚保存会が結成され、活動は現在も続いているが、同会の参与法人には三菱地所、三井物産、三菱東京UFJ銀行、竹中工務店、丸紅などが名を連ねている。神田祭で渡御する将門神輿の担ぎ手は、これらの会社で働く人々である。

将門塚には、多くのカエルの置物がある。転勤や出向で東京を離れる人々が、再び東京に帰る(カエル)ことを願って置くのだという。

非業の死を遂げた坂東武者は、紆余曲折を経て、大手町という出身者のいない街で生きる人々のシンボルになったのである。

宗教学者・観光学者、北海道大学大学院教授

1979年東京生まれ。筑波大学大学院修了。博士(文学)。著書に『聖地と祈りの宗教社会学』(春風社、日本宗教学会賞)、『聖地巡礼 世界遺産からアニメの舞台まで』(中公新書)、『江戸東京の聖地を歩く』(ちくま新書)、『フィールドから読み解く観光文化学』(共編、ミネルヴァ書房、観光学術学会教育・啓蒙著作賞)、『Pilgrimages in the Secular Age』(JPIC)など。近刊に『宗教と日本人―葬式仏教からスピリチュアル文化まで』(中公新書、2021)、『創造論者vs. 無神論者─宗教と科学の百年戦争』(講談社、2023)。

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