Yahoo!ニュース

【連載】暴力の学校 倒錯の街 第17回 「学校再生委員会」と「体罰防止委員会」

藤井誠二ノンフィクションライター

目次へ

「学校再生委員会」と「体罰防止委員会」

また、山近校長は「日常の対策」と題した報告書も同日付で私学学事振興局に提出している。

○体罰防止のための日常の対策

報告を受ければ、校長が当該の教諭を厳しく指導するとともに、職員全体に対し研修会を開催して、体罰防止の徹底をはかることをおこなってきた。(問題が生じても、当事者同士で話し合い、解決したものについては校長まで報告が上がらないことが多かった)

○体罰をなくすための今後の具体的取り組み

今後はどんな小さなことでも、生徒事故やトラブルは迅速に校長・教頭に報告することを徹底するとともに、どんな内容であれ決して生徒の体に手をあてることをしないことを全職員で合意確認の上、(1) 生徒指導に対する、全職員の基本的かつ共通の認識の確立、(2) 個々の生徒の詳細な指導記録の積み上げ、(3) 学年または学校単位で生徒指導に関する事例研究をおこない、それをもとにした研究会を開くなど、全職員の生徒指導の力量を高める、(4) 学年団の機能を高め、情報交換や協議の機会を頻繁にもつ。

曖昧な文言が並ぶ。体罰を生む背景や、「指導」という生徒管理に対して、なんの反省や内省もない。場あたり的でむなしい文章だと私は思う。教員一人ひとりの「教員観」や「子ども観」、ひいては「人間観」を問わなければ、知美が殺された真の意味を理解することはできない。しかし、彼らはそれをやろうとしない。この事件はあくまでもアクシデントで、自分たちを疑う必要はないと考えているとしか思えない。

文部省は十八日に、学校を指導監督する立場の福岡県から事情を聞いているが、この時点で、特に宮本と目撃者の証言が食い違っていることに着目、さらなる調査を求めている。

二十五日には、「体罰のない学園」づくりを目指す「学校再生委員会」が発足する。また、大阪にある本部の近畿大学では懲罰委員会が設置され、事件の調査や宮本の処分について検討を始めた。宮本の懲戒免職が決定したのは、翌八月八日のことだ。

二十六日には再生委員会の第一回会議が開かれ、次のような要点が当日に記録に残された。

ア、生徒指導に対する全教職員の基本的かつ共通の認識の確立が急務である。

イ、個々の生徒の指導の詳細な記録を取り、積み上げていく。その記録に基づいて担任、学年主任、生徒指導部など、その生徒に関わる全ての教職員が、きめ細かな説得力のある指導ができるシステムをつくる。

ウ、学年あるいは学校単位で生徒指導に関する具体的な事例研究をおこない、研究会を開くなど、全教職員の指導力向上を目指す取り組みを、継続しておこなう。

エ、学年で統一した指導をおこなうため、学年団の情報交換や協議の機会を多く待つ。(担任だけに任せるのではなく、学年団としてもまとまって指導に当たるため)

オ、教科指導にあたる教職員の単位でもエのような情報交換と協議の機会を持つ。

力、非常勤の先生方への方針の周知、徹底をはかる。

キ、校則(生徒心得)の見直しについては実情にそぐわぬものなどの検討を含めて生徒指導部へ原案作成を委託する。

ク、この委員会を今後、必要に応じて随時、召集、開催する。

のちに触れるが近大附属では一八○項目にものぼる校則が生徒を縛っている。この校則を一九九六年度をめどに削減したいとの合意がなされたわけである。それにしても、その「校則」に依存してきた教員らの体質についての言及は一切ない。

二十七日には緊急父母会が開かれ、山近校長が保護者に対して事件のいきさつを説明、さきに職員間で申し合わせた五つの基本原則に従い、今までの指導方針を全面的に改めると説明した。しかし、一部の保護者からは、「今までどおり、体罰をおこなってほしい」「学校にあずけた以上、アタマの一つぐらい叩いてほしい」という声も上がった。このような保護者たちか学校の責任を拡散させ被害者の絶望を加速させる。

夏休みの終わり、八月三○日には「体罰防止委員会」を学年主任と生活指導部長らでひらき、「体罰によらないための教員の力量向上」「生徒指導の根底には愛情があるか」ということが話し合われた。

これら一連の陣頭指揮をとったのは小山昭教頭だが、彼は次のようなことをドキュメンタリー番組の中で語っている。

「学校の中から、『ハイ、そこ、スカートが短いじゃないか』『学年章が付いていないじゃないか』という声が消えたらいけないと思う。体罰はいけないが、今までの先生たちの指導は間違っていなかったという自信を持ってください、ということを強調して意思の統一を図った」

厚顔無恥とはこのことである。自己弁護の自家中毒なしでは生きられないのだろうか。「服装の乱れ」が「非行を生む」という迷信を疑わず、それをつき詰めた結果が体罰を容認する体質だということに気づかず、何の言及もない。外見で人格を判断すること、暴力を「教育」とすり替えることは同一のメンタリティである。

さて、山近校長の「体罰は知らなかった」という発言についてだが、彼は私の取材に対し「知らなかった、と言ったのは、常習的におこなわれていたことを知らなかったということです」と答えている。実は、山近校長は一九九三年(平成五年)に藤瀬新一郎が起こした体罰事件について報告を受けており、全職員に対し再発防止を呼びかける研究会までひらいているのである。これについては後の章で詳しく触れるが、これでは事件直後の発言は責任逃れと批判を受けても仕方がない。

そして、二六件の「体罰」申告が三件に減ってしまった理由については、「手を叩くとか、教室の後ろで立たせるといったスキンシップ的なもので、体罰とは言いがたい。指導の一還と判断したのです」と私に言った。

九月三十日、山近校長は辞任している。事件が起きて二ヵ月半しか経っていない。

「私なりに、生徒一人を亡くしてしまったことへのけじめをつけたかったのです。事件後、全力を尽くして最大限の努力をした、と自分なりに判断したからです」

目次へ

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

藤井誠二の最近の記事