高浜原子力発電所の運転禁止仮処分は不当かつ非合理である
大津地方裁判所は、3月9日に、関西電力高浜原子力発電所3号機および4号機の運転を禁止する仮処分の申立てを認めました。さても、政府の定めた最高度に科学技術的な基準を満たして再稼働していた原子力発電所を、科学技術的知見をもたない裁判所の判断で停止せしめるとは、どういうことか。
高浜原子力発電所再稼働をめぐる争い
関西電力の高浜原子力発電所3号機は、1月29日に、原子炉起動が行われ、2月26日には、原子力規制委員会の全検査を終了して、本格運転を再開していました。また、同4号機については、同じ2月26日に、原子炉起動が行われて、再稼働へ向けた最終準備段階に入ったところ、直後の29日に、発電機自動停止にともなう原子炉自動停止という事態を起こしていました。
こうした動きに対して、滋賀県(原子力発電所のある高浜は、隣接する福井県にあります)内の居住者は、「本件各原発が耐震性能に欠け、津波による電源喪失等を原因として周囲に放射性物質汚染を惹起する危険性を有する旨主張して、人格権に基づく妨害予備請求権に基づき、本件各原発を仮に運転してはならないとの仮処分を申し立て」ていました。
そこへ、3月9日、大津地方裁判所は、仮処分申立てを認めて、関西電力に対して、「高浜発電所3号機及び同4号機を運転してはならない」という仮処分命令を発したのです。これを受けて、関西電力は、3月10日に、3号機の原子炉を停止し、また、14日には、大津地方裁判所に対し、仮処分命令の取り消しを求めて、不服申立てを行っています。
仮処分の必要性
しかし、そもそも、なぜ、仮処分が必要なのでしょうか。原子力発電所の差止訴訟における判決を待てばいいことではないでしょうか。
これは、運転禁止の仮処分を求める手続きなのですから、原子力発電所の運転によって「人格権が侵害されるおそれ」のあること、即ち、保全されるべき権利の存在することを前提としたうえで、更に、その保全の必要性が認められなければなりません。
当然、最終的には、保全されるべき権利の存在が究極の論点になるのですが、現時点では、より現実的な問題として、果たして保全の必要まであるのかが問われなくてはなりません。なにしろ、仮処分が取り消されるにしても、一定期間は、運転禁止となるわけで、その間、関西電力が負担する実質的費用は、非常に大きなものになると予想されるからです。
しかるに、裁判所は、保全の必要性について、1月29日に、3号機が原子炉起動し、2月26日には、4号機が原子炉起動したという事実をあげるのみです。
仮に、正式な裁判において、保全されるべき権利が認定されるにしても、この事実だけによって、正式判決を待たずして、運転禁止仮処分を認めなければならないほど、差し迫った事態の変化が生じたといえるのか、あるいは、施設の安全性について不可逆的な重大な改変が生じたといえるのか、疑問なしとしません。
高浜原子力発電所は、3号機も、4号機も、確かに、運転停止してはいるのですが、ともに、いつでも再稼働できる状態にあるのであって、施設の存在自体がもたらす「人格権が侵害されるおそれ」については、全く同じです。
もちろん、施設の稼働という事実は、新たなる危険を追加するものではあるでしょうが、その危険の限界差分をもって、仮処分により阻止しなければならないほどの緊急性を有する事態の急変といえるものなのか、裁判所は、説得力のある説明をすべきです。
裁判所の説明不足の不当性
しかるに、保全の必要性に関する限り、裁判所の説明は、全く不十分であるといわざるを得ません。仮処分決定の根拠として、関西電力の「証明及び疎明」の不十分さをあげている裁判所の論理構成に対比して、自らの説明不足は、非常に奇異にみえます。
実は、関西電力の社長は、2月26日の定例記者会見において、同日原子炉起動の行われた4号機の本格稼働を前提に、「5月1日から電気料金を値下げする」として、具体的な手続きの開始を表明していたのです。ところが、仮処分命令を受けて、3月11日には、この約束を撤回せざるを得なくなっています。
こうして、仮処分命令による損失は、関西電力に帰属するというよりも、電気事業の性格上、より多く利用者に帰属するわけです。裁判所として、この明白な社会的損失と対比したときに、仮処分を認めることの緊急性に全く言及しないことは、極めて不当なことといわざるを得ません。
では、保全の必要性はなかったとしても、保全されるべき権利はあったといえるのか。保全されるべき権利の存在を導くについて、裁判所のとっている論理構成は、非常に単純なものです。
第一に、当該原子力発電所の運転がもたらす危険について、「人格権が侵害されるおそれ」のあることを認定し、第二に、危険を回避し、安全性を確保するための対策について、関西電力に対して、「証明及び疎明」を尽くす義務を認定し、第三に、当該関西電力の義務は果たされていないことを認定する、ということです。
つまり、「人格権が侵害されるおそれ」について、関西電力において、その顕在化を確実に回避できる旨の「証明及び疎明」を尽くさない限り、「人格権が侵害されるおそれ」は顕在化し得るものと考えざるを得ず、故に、保全されるべき権利は存在するという論理です。
証明責任の転換
本件のように、高度に専門的な知見を要する争いの場合は、当事者間の情報の非対称性の存在について、公正公平性を確保できるように、手続き上の工夫がなされなければなりません。それが証明責任の所在の認定の問題です。
本来、「人格権が侵害されるおそれ」の存在の証明責任は、その存在を主張する側にあるのです。ところが、本件のように、専門的知見等が圧倒的に関西電力に偏在するなかでは、事実上、不可能を強いることになってしまいます。
そこで、本決定においては、証明責任の所在を転換して、関西電力の側に負担させる工夫がなされています。つまり、「人格権が侵害されるおそれ」の顕在化を阻止できる旨、関西電力において、「証明及び疎明」がなされない限り、「人格権が侵害されるおそれ」の存在が証明されることになっているのです。
この論理構成については、本決定も引用するように、四国電力伊方原子力発電所の原子炉設置許可処分の取消を求める行政訴訟にかかわる最高裁判決において採用されているもので、正当なものと考えられます。
故に、論点は、関西電力において「証明及び疎明」が尽くされたか、という一点に絞られるのです。本決定は、「証明及び疎明」が尽くされていないとの認定で、仮処分申立てを認めているのですが、関西電力は、「証明及び疎明」は尽くされたとして、不服を申し立てているのです。
さて、かような争いを正当に裁くためには、「証明及び疎明」の内容以前の先決問題として、何をもって「証明及び疎明」が尽くされたといえるのか、その客観的基準を定める必要があります。このことは、自明極まりないことだと思われますが、裁判所は、奇怪なことに、判断基準を明らかにしていません。
「不合理な点のないこと」
実は、先の最高裁判決では、「不合理な点のないこと」という基準があったのです。先の証明責任の転換について、最高裁判決の論理は、次のようになっていました。
第一に、被告行政庁の行った原子炉設置許可処分について、原告は、判断に「不合理な点のある」ことにつき、証明責任を負う。第二に、被告行政庁は、「不合理な点のないこと」の証明責任を負う。第三に、被告行政庁が「不合理な点のないこと」を証明できない限り、「不合理な点のあること」が事実上推認される。
実は、この最高裁判決の論理は、本決定でも、引用されているのです。ところが、奇怪なことに、大津地方裁判所は、最高裁判決の主旨を理解せずに、「不合理な点のないこと」という基準を明確にすることなく、全てを「証明及び疎明」の不足と断定してしまったのです。
これでは、関西電力として、どうすることもできません。ある説明に対して、基準も示されずに、一方的に、説明不足と断定され、更に、追加の説明をしても、不足といわれる、これほど、非合理で不当なことはないでしょう。
もともと、裁判所には、高度に科学技術的な問題について、判断する能力はありません。裁判所にできることは、合理性の判断だけであるはずのところ、大津地方裁判所は、専門家集団である原子力規制委員会や関西電力の判断内容に立ち入った検討をしたうえで、自らの決定を正当化する根拠として、関西電力の説明不足をあげているのです。
これは、もはや、司法の逸脱ではないでしょうか。裁判官として、個人の信条を述べているだけではないでしょうか。
裁判所の傲慢不遜
本決定を司法の正当な判断としてとらえるのならば、東京電力福島第一原子力発電所の事故から5年間に、高度な専門的知見を傾けて、原子力規制委員会と関西電力が積み上げてきた全ての努力について、大津地方裁判所として、合理性がないと断定したものと考えざるを得ません。しかし、そうだとすると、専門家の知見に基づく判断に対する敬意を欠いたものとして、傲慢不遜の極みではないでしょうか。
裁判所は、専門家の知見に基づく判断を尊重したうえで、論理の運びにおける瑕疵や飛躍を発見し、その治癒可能性、もしくは不能性を指摘することしかできないはずです。そのような審理のあり方こそ、最高裁判決に示された「不合理な点のないこと」の証明手続きだと思われます。
専門家は、しばしば、自分にとって自明な中間項Bを省略して、一気にAからCを推論し、そう説明してしまいます。これが論理の飛躍であり、説明不足です。これなら、AからB、BからCを推論し、そう説明することによって、簡単に瑕疵を治癒できます。
確かに、原子力規制委員会にしても、関西電力をはじめとする原子力事業者にしても、「不合理な点のないこと」の説明方法や証明技法について、平易化と論理的緻密化を図る余地はあるのでしょう。今回の決定は、いずれ、取り消されるのでしょうが、その社会的費用を無駄にしないためにも、そうした努力は、徹底されるべきです。