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「紅白・MISIAのレインボーフラッグ」に、ある女性医師が怒りを感じる理由

鎮目博道テレビプロデューサー・演出・ライター。
「HIME CLINIC」武藤ひめ院長(本人提供)

昨年末の紅白歌合戦。レインボーフラッグを掲げたMISIAさんの姿は、評判となった。しかし、その「演出」に怒りを感じているひとりの女性医師がいる。愛知県名古屋市の繁華街・栄地区で「HIME CLINIC」の院長をしている武藤ひめさんだ。

なぜ彼女は、紅白歌合戦に怒りを感じるのか?そして、彼女はなぜ、テレビに毎日のように登場する「オネエタレント」たちのことが許せないのか?以下に、武藤さんが記した文章を紹介するので読んでみて欲しい。

少し長いが、彼女がメディアに対して、そして世間に対して、何を訴えかけ問題提起をしようとしているかを知ることに、僕は意味があると思うのだ。

以下、武藤ひめさんの文章を引用する。

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「トランスジェンダーになりたい訳じゃない…女性でいたい」

私が私を女性と自覚するまで

最近、「性的マイノリティーを理解しよう」、「性の多様性を認めよう」って、世の中が流れています。性別は何種類もあって、自分の性別はなんなんだとか、自分の性別がわからない人までいて、だから、きっと性の多様性が必要だって言われているんだと思います。でも、私には、それがわからない。

私は、今、女性医師としてクリニックの院長を務め、二度目の人生を女性として謳歌しています。ですが、生まれたときは男の子。子供のころ、青春時代、そして医師となった後も男性として生活をしていました。

私が育ったころは「性的マイノリティー」や「トランスジェンダー」なんて言葉は聞いたことが無くて、耳にするのは「オカマ」。「オカマ」のなかでも女性のように綺麗にしている人たちが「ニューハーフ」。オカマは下品な言葉や、派手派手しい化粧や格好をしている男性、それくらいの認識しかありませんでした。当時の世間の多くがそうだったように、「オカマ」を軽蔑していたかもしれません。男性が女性になることへの強い抵抗感と嫌悪感も当然のように持っていました。それだけに、男性として生まれたからには、男性として生きなければいけないと強く思っていたと思います。親や兄弟、周囲が悪いわけではなく、とにかく時代がそうだったんだと思います。

男の子らしく、男性らしくしていれば周囲からも認められていました。普通、男性は特別意識しなくても、男の子らしく、男性らしく生活することができるのだと思うけど、今思えば、私はできていませんでした。小さいころ、よく姉のお下がりのワンピースを着ていたこと、歌番組で歌うキラキラした女性アイドルを見て、大きくなったら、その女性アイドルたちと同じようになるものだと思っていたのを記憶しています。

テレビやアニメで男の子がしていることを、良いことも悪いことも、そのまま真似していました。成長とともに、「どうしていれば、より男性にみられるか?」そればかりを考えていなければ、男性として生活ができなかったのかもしれません。

私は、医師になったあとは、新生児治療にすすみ、たくさんの赤ちゃんの治療を担当する中で、生きたいのに、必死に生きようとしたのに亡くなっていった赤ちゃんや、大きな障害を抱えて退院し、その後も必死に生きている患者さんや御家族の姿をたくさん目にしてきました。そんな人たちの命に対して真っすぐに向き合う姿を感じるたびに、自然と私自身を見つめなおし、私自身の死や人生を考えると、私自身の終わりが来るとき、遠のく意識の中で、本当の最後に自分を評価できるのは自分だけだと気付きました。周りから評価されないような人生でも、「頑張ったね、私・・・」って最後に私から私に言えるような人生を送りたい。そうするためには、自分に正直に、自分に嘘をつくような人生は送ってはいけないって強く決意しました。

正直に自分を見つめなおしてみると、幼少期に「将来は女性になる」と思っていたのに、男性でいる自分がいました。そのことに気付いたことで、それまでに感じていた不自然さや違和感が綺麗に整理されて、女性の感覚を隠し、男らしくしている私に気付きました。

トランスジェンダーという言葉が浸透しつつありますが、テレビでは昔と同じように、女性の格好をした男性たちが見るに堪えないことをして笑いを取ったり、女性に見える人が急に男性の声を張り上げたりしていて、男性が女性になることへの良いイメージが伝えられているとは思えません。そのため私は、自分が女性であることに気が付いても、女性になることへの抵抗感は大きく、なかなか認めがたいものでした。

性的マイノリティーのカミングアウトは自分だけの問題じゃない

よく有名人が性的マイノリティーであることを周囲にカミングアウトしたことが報道されています。そして、称賛されていることが多いように感じます。

私の場合は、徐々に女性へと見た目も変わっていきましたので、周囲には自然と気が付かれました。性的マイノリティーを受け入れていこうという風潮も強くなってきていたころで、きっと何とか私も受け入れてもらえるから、それまでと変わらずに生活ができるだろうと考えていました。そのときは、性的マイノリティーの権利は周囲が当然のように認めるものだから、私はそのまま大学病院の医師としての生活を続けられると思っていたんです。ですが、それが大きな間違いでした。

私の間違いは、社会的性別を変えるのは個人の問題で、周囲には非常に大きな問題にはならないと考えていたことです。ですが、実際には私の想像を超える影響を周囲に与え、負担をかけてしまいました。私が心から謝罪し、反省をしなければいけないところです。

勘違いしている方も多いかもしれませんが、トランスジェンダーは同性に恋愛感情を持つから、生まれ持った性別と反対の性別を自覚するわけではありません。生まれ持った性別と反対の性別として人生を送ることに自分のアイデンティティーがあり、生きる意味があります。

私の場合は、私の性別が女性だと意識してから、容姿だけではなく生活も徐々に女性へと近づいていきました。人生全てが女性として生きていくことになりますから、仕事のときは男装をするということはありません。女装家の人たちが都合の良いときに女性の格好をしようとするのとは違い、常に女性として生きていくので、自然と女性らしくなっていきます。周囲も当然、気が付きます。性的マイノリティーの権利を守らなければいけないという社会的な動きもあってか、周囲が私に気を遣っているのが私には痛いほどよくわかりました。

私を呼ぶとき、冗談を言うとき、私から医師としても指示をもらうとき、それまでとは違って、私に何を言ってはいけないかを考えながら発言したり、気を遣われているため、距離を感じました。周囲の私への態度が不自然なのは、気を遣っているからだとは思わずに、いらいらしたりもしていました。

女性として人生を再スタートしようとしたとき、周囲は当然、以前男性であった私を急に女性として扱うことはできません。そのたびに、私は自分が男性であったことを意識せざるを得ません。そのことは重くのしかかり、いつまでたっても男性であったことを意識せずに一人の女性として生きていくことは難しくなります。

私の場合、周囲の人たちへ負担をかけてしまっているという申し訳なさと、女性として人生を一からやり直すために、それまで勤務した大学病院を退職し、男性であったと扱われたくない気持ちが強かったので、周囲のほぼ全ての方々と距離をおきました。

世の中は、様々な意見や価値観、倫理観があって成り立っているはずで、性的マイノリティーに関しても、それをどう感じるかは自由なはずです。ですが、性的マイノリティーに関して否定的に言えばバッシングを受けたり、認めなければいけないといった空気を感じます。性的マイノリティーのことを知らなければいけないということと、認めなければいけないということは違うので、世の中全ての人が性的マイノリティーを認めなければいけないというのには違和感を覚えます。

このように性的マイノリティーのカミングアウトを受け入れなければいけない、という空気が強い中では、その周囲に与える影響は非常に大きく、カミングアウトした当事者は自分が抱えていたことを周囲に伝えることで気持ちや生活が楽になるかもしれませんが、周囲の人からすれば青天の霹靂かもしれず、何らかの負担をかけることは確かです。

私は同性愛者ではないので、同性愛者の方をしっかりと理解はできていませんが、とくに性別に変更もなく、その容姿も変わらない同性愛者の方の、社会へ向けたカミングアウトの有益性はあまりわかりません。異性に恋愛感情を持つのか、同性を対象とするのかは、社会的にそれほど問題となることでしょうか?私には、どのようなタイプの人が好きなのか?と同じように感じます。家族やごく親しい人が知っておく必要はあるかもしれませんが、同性愛者であることが何か仕事に影響することはあるでしょうか?恋愛と仕事は関係ありません。性的マイノリティーの広く社会に向けたカミングアウトには、私は反対です。

メディアが作り出している私たちへの屈辱的なイメージ

過去の私もそうでしたが、きっと多くの人は、「男性が女性に変わる」と聞くと、テレビに出てくる、「オネエ芸人」「オネエタレント」を思い浮かべてしまうのではないでしょうか?

「オネエ」という言葉が付いた時点で、単に女性を意味することはなくなり、元男性という意味が入ります。そして、テレビの中の「オネエ」たちは、わざわざ元男性であることを誇張して、ネタにして笑いを取ります。メディアは、そうした「オネエ」をとことん利用しています。何も知らない人たちは、男性が女性に変わることイコール「オネエ」だと思ってしまいます。

私たちトランスジェンダーの多くは、普通に暮らしたいと願い、普通に生活をしています。元男性だとか元女性だとかは忘れて生活しています。わざわざ元の性別を言いたくはありません。そして、しっかりと社会の中に溶け込んでいるトランスジェンダーには、街中の多くの人が気が付くことはありません。会社などでも、上司やごく限られた人のみが元の性別を知っているだけの場合もあります。女性として普通に暮らしているのに、元男性だと知られたとたんに世間から「オネエ」のイメージで考えられることは屈辱的です。

ですがメディアは、元の性別がわかるような様相の人たちを、わざわざそれが性的マイノリティーであるかのように報じます。私と同じように女性として生活している人は、テレビに流されるような、女性だったら絶対にしないような格好もしません。

毎日のように、テレビからは「オネエ」が流されています。一見したら女性なのに、突然男性の声で歌い出し、笑いをとる。そして、そんな「オネエ芸人」やタレントを、笑いのネタにした男性芸人が、さらに誇張したものまねをして・・・どこまで私たちを笑いのネタにすれば気が済むのでしょうか?私たちのイメージや存在が、そんな風に印象づけられてしまう可能性を考えたりしないのでしょうか?「オネエ」や芸人たちをみて、世間の人たちは笑っています。そういうことが繰り返されることで、私たちのことも笑ってもいいんだという印象も一緒につけているのではないでしょうか?

性的マイノリティーを認めようという、あたかも正論じみたことを報じているのに、メディアは都合良く自分勝手に、どんどん私たちのイメージを歪曲して世間に植え付けているような気がします。

最近衝撃的だったのは、去年の大晦日の紅白歌合戦で歌手のMISIAさんが、性的マイノリティーの象徴であるレインボーフラッグを掲げたこと。それを世間は称賛するばかりで、メディアも、そのことが素晴らしいことだということを世間に印象づけました。

ですが私は、「また私たちの誤ったイメージが広まってしまった」と強い怒りすら感じました。MISIAさんはバックダンサーに、私たちや女性が絶対に着ないような派手派手しい服装を着た人や、男性だとわかるような人たちを並べ歌いました。そこまでなら、ショーなのでまだ理解もできます。ですが、そこにレインボーフラッグを掲げました。その派手な人たちがトランスジェンダーで、それを理解しようっていうことを言いたかったのでしょうか?あの人たちは私たちとは全く違います。私たちは、いつまでメディアにピエロにされ続ければよいのでしょうか?

メディアの人種差別に対する姿勢と比較してみましょう。昔は肌を黒く塗って歌を歌い、笑いをとる芸人さんがいました。今はなぜいなくなったのでしょうか?今でも、そうしたことを面白いと感じる人はいると思います。ですが今は、テレビで肌の色をネタにした放送はしていません。なぜ性別に関する問題は、笑いのネタにしてよいのでしょうか?

私だって、普通の女性として静かに暮らしていたのですが、このままでは世間から普通の女性と見られなくなってしまう。見ず知らずの人に、私がオネエタレントと同じように思われたら屈辱的です。ちゃんと社会の中で暮らしているトランスジェンダーには、私と同じように感じている人も多いのではないでしょうか?

ですから私が知っている限り、性的マイノリティーのパレードやイベントには、特に生活に困っているわけでもなければトランスジェンダーだと主張するわけでもないので、参加しない人が多いのです。

ですが、性的マイノリティーのパレードなどが報道されると、ごく普通にしか見えない人だってきっとたくさん参加しているはずなのに、なぜか奇妙な服装をした人たちばかりが報じられます。

もし、私たちのことが広く知られるのにつれて、私たちのことをオネエたちと同じように思う人が増えてしまうのだとすれば、メディアの責任が大きいと私は感じます。

世間へのトランスジェンダーの啓蒙と対応への違和感

文部科学省が教育機関に対して、性別に違和感を覚える児童や生徒にきめ細かな対応をするように指示をして、各学校などが男女のトイレの入り口を一緒にしたり、公共のトイレでは、All gender用やトランスジェンダー用トイレを設けるなどしました。トランスジェンダーへの対応と言えば、トイレの問題が切り離せません。

社会的性別として、生まれたときと反対の性別を自覚しても、急に男性が女性に変わったり、女性が男性に変われるわけではありません。容姿は、徐々にしか変われないのです。トランスジェンダーが性別を変えるとき、どうしても女性なのか男性なのかよくわからない時期があって、女性用のトイレを使うか男性用のトイレを使うかはっきりしない時期があります。だから、トランスジェンダー用のトイレが必要になるという議論もわかります。しかし、トランスジェンダー用トイレには私は違和感があります。なぜなら、ちゃんと女性なら女性、男性なら男性として社会で生きていくのがトランスジェンダーで、どちらかよくわからない性別でいることでは、決してトランスジェンダーとしての十分な幸福感は得られません。

トランスジェンダー用トイレが普及したら、変わるまでの一時は良いかもしれませんが、トランスジェンダーなんだからトランスジェンダー用トイレを使用しなきゃいけないなんて理論になったら、私たちは一生トイレを使用するたびに元男性だったり元女性だったりということを意識することになって、そのたびに息が詰まるような思いをしなきゃいけなくなります。そして、トランスジェンダー用トイレに入るところを見られたら、後ろ指をさされるかもしれないし、何より差別だと感じます。

私は、女性用トイレを使うようになるまでは、男性用を使用していましたが、そのたびに違和感や劣等感をえ覚えて、早く誰から見ても女性としてちゃんと生きれるようにならなきゃいけないっていう気持ちに置き換えていました。どんどん女性へと変化していく中で、男性用トイレを使用しようとすると、「トイレを間違えていますよ」って声をかけられることが増えてきたり、女性の友達とトイレに行ったとき、なんで女性用に行かないの?って言われるようになって、女性用トイレを使用するようにしました。それでも、しばらくは女性の友達が一緒なら女性用、一人のときは男性用を使用していました。

だから、トランスジェンダー用トイレやAll gender用トイレは、私たちが反対の性別として生きていけなくなる原因にもなります。女性なら女性、男性なら男性として生きていたのに、トランスジェンダーっていうくくりにされてしまう。

他にも、トランスジェンダーへの世の中の流れにも、たくさんの疑問があります。トランスジェンダーが生きにくさを感じるから、もっと世間が理解をしなきゃいけないって考えられたりしているけど、全てではないけど、それはトランスジェンダーに限った問題じゃないんじゃないか?って思います。私は女性として生きているので、女性から男性になった人たちのことはわかりません。男性から女性に変わった私が感じるのは、社会の中に山ほど転がっている「女性が受ける差別」です。女性として扱われるようになって初めて体験する女性差別を、「トランスジェンダーの生きにくさ」と感じることがあるんじゃないかと思うんです。

例えば、狭い通路や出入り口を通るとき、反対から女性が来ていても何も気にせず男性が通過して、女性は無意識に避けているなんてことは普通にあると思うんです。これも、女性を何気なしに下に見ている男性が多いっていう事だと思います。仕事の上でも、女性医師が診察しているとわかると、診察室に入るなり「早く薬をだせ!」って、年配の男性患者がすごんできたり、男性医師だったら簡単な説明でも良かったのに、女性医師だと、なかなか納得してもらえなかったり、しっかり説明をしているのに、言葉尻をとられて、揚げ足をとられたり、くってかかってこられたり…。こんな経験は女性医師の方が多いはずです。先日、女性の弁護士さんたちと話していたときも、同じようなことがあることを聞きました。

まだまだ、同じ仕事や成果を上げても、女性の方が評価されにくい社会であることは確かだと感じます。だから男性から女性に変わったトランスジェンダーが感じる生きにくさは、女性としての生きにくさもあるんじゃないかと思います。しかも、元男性であったので、社会の中での体験を比較することができます。つまり、男性だったときは問題が無かった事が、問題と感じるようになるから、女性よりも女性差別に敏感なのかもしれません。だから、私はトランスジェンダーの問題と切り抜くよりも、女性差別や職業差別、社会全般に共通した問題ととらえなければいけないと考えています。

性に多様性は必要なのか?

性的マイノリティーの象徴としてレインボーフラッグがあって、きれいに色分けがされています。いろんな性別があるって意味なんですが、ゲイならゲイ、レズビアンはレズビアン、トランスジェンダーのMtF、トランスジェンダーのFtMみたいな性別が必要なんでしょうか?私は、私がトランスジェンダーMtFっていう性別にされるのは、絶対に嫌です。だって私は女性なんです。普通に女性として暮らしています。なんで女性とは違う性別に仕分けされないといけないのでしょうか?レインボーフラッグを見るたびに、女性とは違う性別なんだと、「女性のような女性とは違う性別としてなら世の中は受け入れる」と言われているような感じさえ覚えます。

同性愛の人たちだって同じです。なぜ、彼ら、彼女たちを女性や男性と違う性別に仕分けしないといけないんですか?同じ男性、同じ女性じゃないですか?恋愛対象が同性と言うだけで男性は男性、女性は女性じゃいけないのでしょうか?

なにか仕分けしないと不都合があるのでしょうか?私たちや、彼ら、彼女らを同じ男性、同じ女性と認めたくない人たちには良いかもしれませんが、性的マイノリティーの人たちにとって新たな性別に仕分けされることで何か意味があるのでしょうか?少なくとも、私は新たな差別としか思いません。

もっと言ってしまえば、性的マイノリティーとか、トランスジェンダーとか、同性愛とか、そんな言葉があるから、いけないんです。社会の中で、男性も女性も関係なく活躍できるようになればいいのです。男性も女性も、ひとりの人です。女性であること、男性であることは、その人の「単なる個性」になるんじゃないでしょうか?レインボーフラッグなんていりません。いろんな色が混じった一色でいいんです。私は、それが本当の性の平等だと思います。

性の多様性は正当化されて表現されますが、人種ではどうでしょうか?人種に多様性があると言って、人種ごとに区別することが正当化されますか?肌の色が違ったり、言葉が違ったり、文化が違ったりしますが、人類の平等を考えたとき、同じ地球に暮らす地球人だとは思いませんか?

トランスジェンダーなんて性別が出できたら、私は一生、女性と名乗れなくなります。どうして、もっと広く大きく性別を捕らえようとしないのでしょうか?女性は女性、男性は男性です。

私は、トランスジェンダーなんて性別じゃなくて、女性なんです。

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テレビプロデューサー・演出・ライター。

92年テレビ朝日入社。社会部記者として阪神大震災やオウム真理教を取材した後、スーパーJチャンネル、スーパーモーニング、報道ステーションなどのディレクターを経てプロデューサーに。中国・朝鮮半島やアメリカ同時多発テロなどを取材。またABEMAのサービス立ち上げに参画。「AbemaPrime」「Wの悲喜劇」などの番組を企画・プロデュース。2019年8月に独立し、テレビ・動画制作のみならず、多メディアで活動。公共コミュニケーション学会会員として地域メディアについて学び、顔ハメパネルをライフワークとして研究。近著に『腐ったテレビに誰がした? 「中の人」による検証と考察』(光文社)

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