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【動画】田原総一朗の仕事術 田原さんの日常と現場を追った

原一男映画監督

 これまで田原さんをドキュメンタリーの世界に導いてくれた恩人と発言してきた。が、ドキュメンタリー理論の講義を受けたというわけではない。1970年頃、田原さんの助手のような仕事をするようになり、東京12チャンネルに出入りしていた時代が若干ある。田原さんと会うときは、決まって「何時に局のロビーで」とアポを取る。そして約束通りに出向く。打ち合わせは、だいたい1時間で終わる。で、「じゃあ」とあっさり、引き上げる。普通なら、たまに、「コーヒーでも飲みながら雑談でもしようか」とか「食事をしようか」となるハズなのだが、田原さんの場合、決して、そうならない。ただの一度も、そうならなかった。だから田原さんと一緒に仕事を、と言いながら、どこか寂しい感じ、虚しい感じがいつもあった。私は実の父親の名前も顔も知らない。一度も会ったことがないのだ。だから、自分の中に父親コンプレックスがあることを自覚していた。そのファザコン意識が、余計に田原さんとの付き合い方に物足りなさを感じていたのだとは思う。

 それから長い時間が経った。2年ほど前のことだ。田原さんをインタビューして欲しいという依頼があった。長い付き合いの中で初めて田原さんの自宅を訪ねた。月島にあるマンション。部屋に案内されて驚いた。部屋じゅう本だらけ。足の踏み場もない感じ。しかも雑然と、ちょっとした地震でもあれば、たちまち崩れそうな、ホントに無秩序に山積みされていた。田原さんが、ここでいつも仕事をしているんだ、というデスクの上もまた、本がうず高く積まれていて、原稿を書いているとごく僅かなスペースしか空いていなかった。

 驚いた、というより呆れてしまった。追い打ちをかけるように、「食事もここでしているんだ」と言う。「えっ! とても料理が盛られている食器類を並べるだけのスペースなんてないじゃないか」。私がそう言うと田原さん、積み上がっている本の上に「食器はここに置くんだ」と屈託なく説明。

 その雑然ぶりに驚きながら長年の疑問がとけたという思いがあった。東京12チャンネル時代の、素っ気ない、冷たい田原さんの私との付き合い方。「そうか、マジ寸暇を惜しんで勉強してたんだなあ」と。田原さんが取り組むテーマの多様さに凄いなあと思っていたのだが、それぞれのテーマに関して書物を大量に買い込んで読みこなして、という基礎的な学習をきちんとこなした上で取材に取り掛かる、そんな最も基本的な姿勢があった。気配りということで、コミュニケーションを取るためにコーヒーに誘う、という日常的な関係を大切にするという生き方を田原さんは捨てたのだ。いつしかジワーッと感動している私がいた。

クレジット

編集:石崎俊一
構成:島野千尋

映画監督

1945年、山口県宇部市生まれ。東京綜合写真専門学校中退後、養護学校の介助職員を勤めながら障害児の世界にのめり込み、写真展「ばかにすンな」を開催。1972年、小林佐智子と共に疾走プロダクションを設立。同年、『さようならCP』で監督デビュー。1974年、元妻、武田美由紀の自力出産を記録した『極私的エロス・恋歌1974』を発表。1987年には元日本兵の奥崎謙三が上官の戦争責任を過激に追究する『ゆきゆきて、神軍』が大ヒット。1994年、井上光晴の虚実に迫る『全身小説家』を発表。2005年、ひとりの人生を4人の女優が演じる初の劇映画『またの日の知華』を発表。最新作『水俣曼荼羅』が公開中。

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