人や組織の問題に対処するには「曖昧耐性」が必要〜なんでも明確化すればよいわけではない〜
■世界はそもそも曖昧なもの
白か黒で答えろという難題をつきつけられてしんどいみたいな歌がありましたが、この世界のほとんどは本当は灰色です。白でも黒でもありません。
しかし、現代では、それをどちらかといえばこっちとデジタルに決めてしまい、物事をシンプルに明確に考えていくことが「わかりやすい」とされる傾向があります。
自分も仕事においては、「そうやなぁ、どっちやろうなぁ」で放置しておいては済まないので、そうしてしまっています。どちらかに決めなければ話が進まないからです。
■それを明確にすると「きれいに間違う」
でも、それは「わかりやすい」かもしれないのですが、要は「本当は曖昧な現実」とは違うものを根拠に論を進めることになるため、得られる結論もまた必ず微妙に間違っていることになっているわけです。
こうやって人間は世界を「きれいに」誤解し、「きれい」に間違っていくのです。
そして、現実との乖離がどんどん大きくなって、ある時カタルシスが訪れて、次の「誤解」をなんとか作り上げないといけなくなるはめになっていく。
人生や世界はそういうことの永遠の繰り返しです。
■人事の仕事で当てはめて考えてみると
人事の仕事の中では、採用は「明確化」が求められる仕事です。要は採るのか採らないのか、二つに一つしかないので、それを決めなければなりません。評価・報酬も同じようなことが言えます。最終的にいくら払うのか、きちんと決めないといけません。
しかし、人材育成や組織開発は、やや趣が違うように感じます。
最終的になんらかの明確な落としどころを求められる採用や評価と違い、人材育成や組織開発にはそもそも曖昧な目標しかありません。加えて、スタート地点である今の状態自体が、曖昧にしか、捉えることができません。
そこでよく間違ってしまうのが、「明確にしなくてはいけないのではないか」という考えです。「見える化」とかしなければいけないのではないかとか思ってしまうのです。
■「見える化」とか「明確化」は本当に必要なのか
でも、それは本当は逆ではないかと思うのです。採用や評価は「明確化しなければならない」ので、仕方なく(現実とは乖離があるのに)明確化しているだけです。本当はしなくてよいのであれば、しないほうがよい「必要悪」です。それを真似することはありません。
特に、人間関係などは何がどうなのか、極めて曖昧で真実は常に薮の中です。私は長年、人事として問題の起こった組織のメンバーにいろいろとヒアリングする機会があったのですが、真実は一つのはずなのに、全く正反対のことを言う人がいることなんて日常茶飯事でした。
■どんな人の話も「心理的事実」ではある
ここで正しい態度は、けして「どちらが本当か」を問いただすことではないと思います。真実は一つとしても、各人がその真実をそれぞれに解釈して、主観的には確実にそう思っているということ自体は心理的事実です。
ですから、自分は人事として組織開発や人材育成に携わる際に「話は半分に聞く(=全部を真実とは思わない)」「拙速に動かない(=すべては「仮説」として、一旦判断を保留しておく)」ことを心掛けていたのです。
■「真に受けない」方が相手は安心する
経営者や人事を経験してきて、実感として思うのは、上記の態度の方が、「僕はあなたの言うことを真に受けて、きちんとすぐに動きますよ」などと言って向き合うよりも、相手がリラックスして好きなことを話せるのではないかということです。
普通は「真面目に話を聞く」方が真摯に相手に向き合っていると思われると考えるでしょうが、本当はそうではないのではないかと思うのです。
それは、こと人や組織のような曖昧なものについては、言っている本人も自分の言っていることに自信がなかったり、あるいは自分の言っていることが偏見や思い込みであることに気付いているからです。
そう考えると、そこでの正しい態度は「受け流す」「正解・不正解を定めない」という曖昧なままで受け止めておく態度なのではないでしょうか。
■「曖昧耐性」を身につけるのは難しいですが
形あるものは壊れていきます。
明確に定義されたものや関係性は必ずその定義から離れていきます。
人間の認識能力の特性上、曖昧なものを何の型にも当て嵌めずにそのままで置いておく、ありのままで置いておくのはかなり難易度の高い技であると思います。
しかし、真実はグレーである。白でも黒でもない。
明確化の誘惑に負けず、曖昧さを抱きしめて生きることが必要なこともあるのではないでしょうか。