組織の問題のほとんどは「個」ではなく「システム」が原因〜なんでも個人のせいにするな〜
■個体は群れの意志に従っているだけ
昔、水族館でイワシの群れを見ていると、円筒上の細長い水槽にイワシが多量にいて、それらが一方向にずーっと泳いでいる。近寄って見ると個々のイワシたちの個性も多少は感じるので(大きいとか小さいとか目がでかいとかあごが長いとか)彼らがそれぞれ何かを考えながら自由意志で泳いでいるようにも見えなくもない。
しかし、遠目で見ると「イワシの群れ」という一つの存在がぐるぐるまわっているという印象を持ちます。個々のイワシが主体的に行っているように見える判断は、結局のところ全体の統一感を破壊することはありません。それどころか全体からの要請で自分の役割を演じているだけに思えます。
つまり、彼らは自由意志の錯覚(おれは自由に海を泳いでいるのだ!)に陥りながら、実のところは全体の「意志」に従っているだけの「一部分」なのです。
■人が辞めるのは、その人がダメだったからなのか
なんの話かというと、こういうことは組織にも大いに当てはまると思うのです。
昔、所属していた会社のある部署で新人がすぐ辞めることが問題となりました。その社員の持つ性格だとかモチベーションだとかそういうことが問題ではないかということで、採用を担当していた私たちに責任の目を向けられたのですが、辞めようとしている新人社員にヒアリングをしても、理由がどうもよくわからない。個人として取り出したとき、それほど問題のある人にはやはり思えなかったのです。
■組織自体の問題が、弱い個人にしわ寄せがいっている
そこでその人の所属する部署の人に片っ端からヒアリングをしていったところ、その部署自体が疲弊していたことがわかりました。仕事量に比してマネジャーの数が少なく、日々メンバーに目が回らなかったり、監視が届かないのをいいことに、古株の社員たちと若手社員たちとが反目しあっていたり。そういう事情があったのです。
結局思ったのは、「問題社員」自身に問題があるというよりは、「問題社員」を取り囲む部署に存在する数々の疲弊のひずみが、その「問題社員」に集中しているのではということでした。
「問題社員」は新人であったり優しい性格であったりひずみを受けやすい理由が個人のレベルでもあったかもしれないのですが、本質的なところは彼が一部であるところのシステムの問題であったのです。
その後、マネジャーが兼務していた「余分な」仕事を減らしマネジメントにさける時間を増やしたり、古株と若手社員のグループの間を取り持つような社員の異動を行ったりしました。すると嘘のように定着率がよくなっていったのです。
■個の後ろにある「システム」「仕組み」に目を向ける
このようなことは人間社会や組織にはとてもたくさんあると思います。
私は大昔、警察で非行少年の心理判定員をしていたことがあるのですが、少年の非行が実は両親の不和をなんとかつなぎとめる「かすがい」の役割のように見えることもありました。少年が非行でも起こさなければ、その両親は力を合わせて共同作業をすることなどないのです。
他にも以前、明石の花火大会での歩道橋の上に人の群れが押し寄せ、数名が圧死するという悲惨な事故がありましたが、あれにしてもあの歩道橋の個々の人々の誰も「人を押しつぶしてやろう」などと考えているわけがありません。個々には逃げ出したい、行きたい、怖い、暑い、痛いなどと考えて行動していただけでしょうが、結果としては「人の群れ」が人を押しつぶしてしまったのです。歩道橋の上にいた人はそれこそ「どうしようもなかった」と思います。事故の原因は「群れ」の意志=システム(警備・動線・その日の人出・気温等々)にあるのです。
■個人を動かそうとするのであれば、システムや仕組みを変える
一人の人間は、集団の一部分です。それは所属する群れ=組織の一部という意味でもあるし、人類の一部であるという意味でもあるし、動物の一部であるという意味でもあるし、大いなる「存在」の一部という意味でもあります。そしてそれぞれの階層から個々の人間は役割を要請されて、知らず知らずのうちに(あるいは自らやろうと思ったとさえ錯覚して)その役割を演じているのです。
「自由な意志」という概念は法的・社会的な意味においては大切な概念であると思うのですが、しかし本当に個々人の行動の原因としての自由意志を探しても、どこにも見つからないのがおちなのではないでしょうか。私たちもあのイワシのように「自分の意志」で自分の行動を微調整しながら、結局は人生の水槽をぐるぐるまわっているだけなのかもしれません。