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なぜ続く強権独裁? ~カンボジア2018総選挙~

阿佐部伸一ジャーナリスト
カンボジアの国会議事堂。下院125、上院62議席で構成されている(筆者撮影)

 カンボジアで今年7月29日に実施された下院選挙で、1985年以来政権の座にあるフンセン首相が率いる与党・人民党が9割を超す議席を取って圧勝した。政党を選ぶ比例代表制の下、最大野党を解党に追い込むなど、強引に批判勢力を抑え込んでの選挙だった。欧米諸国はその公平性を疑問視する一方、多くのカンボジア国民は不満を口にできない状態にある。

 先ずは今回の選挙期間中に現地取材したビデオリポートをご覧いただきたい。

独裁体制が続くカンボジア

 カンボジアでは2013年の前回下院(国民議会)選で野党・救国党が4割超え、過半数に迫る躍進を見せた。

 だが、昨年9月には政府批判も辞さない自由な報道をしていた英字紙『カンボジアン・デイリー』が巨額の納税を迫られて廃刊。11月には最高裁が最大野党・救国党に「国家転覆を企てた」として解党命令を出した。

 救国党初代党首のサムレンシー氏には解党命令の前に帰国禁止令が出され、レンシー氏の後を継いだケムソカ党首は国家反逆罪で昨年9月逮捕され、ベトナム国境に近い拘置所に収容されている。救国党の議員と党員の計118人は向こう5年間の政治活動を禁じられ、その大半は身の危険を感じて外国へ亡命している。また、オーガニック農法を広めるNGOが母体の野党、草の根民主党の創設者の一人、ケムレイ氏は一昨年の7月、フンセン首相の家族の収入についてラジオ番組で公言した直後、白昼のプノンペンで銃殺されている。

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会合の冒頭、創立者の一人、ケムレイ氏に黙祷を捧げる草の根民主党の党員ら(筆者撮影)

 一方、空席となった救国党の議席55は、補欠選挙を行わず、41を前回選挙で1議席も取れなかったフンシンペック党に、2議席を愛国党に、1議席を経済開発党に振り分けた。そして、民主党連盟と反貧困党が拒んだ11議席は人民党議員で埋めた。 

 上院(元老院)選が今年2月にあったが、全62議席を人民党議員が占める結果となり、対抗勢力不在の国会は、言論や信条、結社などの自由を制限する法律を次々と通してきた。今回の選挙を待たずして独裁体制となっていたわけだ。 

フンセン首相の飴と鞭

 フンセン首相は自党・人民党が確実に絶対多数を取れる状況下では、野党やメディア、NGOにも寛容だった。だが、支持率が低下して続投が危うくなると、これまでも強権を発動してきた。救国党の支持者の多くは、150万人はいると言われる工場労働者が主だった。その救国党を潰した後、フンセン首相は毎週末のように女性や若者が働く工場を視察し、賃金や家賃、出産などの手当で支援を約束し、救国党支持者の反発を和らげ、人民党に転向させようとしていた。

カンボジア公正自由選挙委員会

 「まるでUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の前へ逆戻りしたような感じですよ」と、カンボジア公正自由選挙委員会の幹部は嘲笑していた。今回の下院選で一切の活動ができなかった同委員会だが、実は次のような活動計画があった。(1)選挙手続きの研究、(2)投票所の設備を調査、(3)投開票の監視チェックリスト作り、(4)特別監視員約1万人の全国投票所への貼り付け、(5)2,000の開票所で独自集計。しかし、今年の早い段階で、これらの活動を実施できる見通しはなかった。「どんな場合に中止するのか」という問いに、同幹部は「もうお分かりでしょう」と。つまり、公正で自由でない選挙ならば、全ての活動が無意味になるということだ。

 同委員会が選挙監視を中止した理由を投票日直前、同幹部は改めて挙げた。(1)市民団体を組織して選挙監視することを内務省が禁止した。ちなみに、同委員会とかつては協力関係にあった国家選挙委員会は内務省の下部機関である。(2)協力者たちが当局の取り締まりを恐れて、選挙に関わりたくないと遠ざかって行った。(3)残った監視員も担当選挙区の役所や警察、それに一般市民に身元を知られたくないと躊躇していた。政府の弾圧の下、委員長は海外へ避難したまま、公正自由選挙委員会は名ばかりの存在になってしまっていたのだ。

日本のスタンス

 公正でない選挙と分かっていながら支援すれば、その選挙結果も認めることになると欧米諸国が選挙制度改革から手を引いた。ところが、日本政府は国家選挙委員会へ750万ドル相当の投票箱など選挙資材を贈っている。

 公正自由選挙委員会の幹部は「国家選挙委員会が今や中立な機関ではなくなっているということを日本は知っているのでしょうか」と苦言を呈していた。選管委員9人のうち4人は与党から、別の4人は野党から、そして残りの一人がNGOからと当初はバランスが取れた構成だった。しかし、救国党に解党命令が出された去年11月以降は、野党からだった4人も与党寄りの小党所属の委員となり、今回の下院選挙は委員の9人中8人が現政権支持者だった。

 そんな状況も承知していたはずの日本だが、曖昧な対応は今回に始まったことではない。日本は白黒どちらかといった判定はせず、カンボジア以外の軍事独裁政権にも援助外交を続けてきた国である。

強気の政府 後ろ盾は中国

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写真:フンセン首相にも近い内閣府報道官パイシーパン氏(筆者撮影)

 内閣府でインタビューに応じたフンセン首相にも近いパイシーパン報道官は「選挙委員会は法の下で選挙を運営し、選挙結果を認めるか否かは、あくまでカンボジア政府が判断することで、欧米など外国がどうこう言うべきことではない」と語気を強める。

 旧西側諸国が民主化プロセスに介入して来ることを内政干渉だと嫌う。だが、その一方で、街中の看板のみならず、この内閣府でもトイレの表記は中国語といった具合で、どちらを向いても中国語が目に入る。ここは中国の植民地かと思うほどの影響を受けている。中国との戦略的経済開発協力に調印した2010年以降、中国からの援助に拍車がかかった。同じ協力関係をラオスとも調印し、メコン川や陸路を南下してカンボジアのシアヌークビル港へという中国のインドシナ版一帯一路を構築するという狙いは明白。それでも、中国がカンボジアの内政批判をすることはない。習近平総書記が自ら長期独裁政権を敷いているからだ。

 パイシーパン報道官は「日本はアメリカに敗戦し、アメリカの傘下にいるが、日本独自の文化を持ち続けているじゃないですか。カンボジアと中国の関係もそう。カネに中国の臭いが付いているわけではないですから」と言ってのける。

 政府統計によると、カンボジアの2017年の国家予算は50億4千万ドル。外国と国際機関への累積債務は62億ドル。そのうち中国が半分近い47.5%を占め、アジア開発銀行が18%、日本は韓国よりも少なく3.9%に過ぎない。どこの影響が一番大きいかは、一目瞭然だ。こうした対外債務も野党の催促で公表されるようになったが、一党独裁が続けば再び統計は入手困難となる。

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写真:中国の投資でプノンペン都心の湖を埋め立て進む都市開発(筆者撮影)

投票率82%超え 人民党圧勝 その理由は

 今回の投票者数は、18歳以上の674万人だった。前回選挙で救国党に入れた300万を超す人たちに、同党サムレンシー初代党首らは不公正な選挙をボイコットするよう亡命先から伝えていた。しかし、投票率は前回を16ポイント上回る82%超えだった。カンボジアでは二重投票を防ぐ目的からも、投票した人は指先に1週間は消えない青色インクを着ける。指にインクがないと、違法とされた救国党支持者と見られて嫌がらせを受けると、しぶしぶ投票に行った人が多かったのだ。

 また、前救国党支持者の票が他の野党へ流れることも考えられたが、与党・人民党が全125議席の9割以上を占めた。さすがに秘密投票は守られていたことから、思いを託せる適当な党がなかったと言える。前回参加した政党は8つだったが、今回は与党を含めた20党が乱立。野党はどれも弱小でキャンペーンも貧弱で、わずか20日間の選挙期間中には、党名すら多くの有権者に知らせることができなかった。

 加えて、政府批判を露わにする野党の党員や支持者は、テロなどの暴力に出なくても、職や土地を失ったり、逮捕・収監されたり、何者かに暗殺されたりするという事実はカンボジア市民の間でも知れわたっていた。とにかく我が身と家族の平和が一番と、長いものには巻かれろ式に人民党に投票した人が多かったことは想像に難くない。

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写真:ダイヤモンド・アイランドへ架かる橋とフンセン首相率いる人民党のポスター(筆者撮影)

日本人ビジネスマンは独裁支持

 「日本人商工会のメンバーは安定の方が大事だと思っていますよ」。カンボジアに暮らして20年以上、現地商社を営む日本人男性は、概ねフンセン独裁を支持していた。彼が面談に選んだ場所は、フンセン首相の家族が利権を握る『ダイヤモンド・アイランド』と呼ばれる再開発地域。ここはメコン川の中洲で畑ばかりだったが、中国がテーマパークさながらの欧州風会議場や公園を既に完成させ、何棟もの高層ビルの建設が進んでいる。彼はネット上の自己紹介でも「カンボジアの経済成長と共に自分も成長できました。縮小傾向の日本ではなく、高度経済成長の国にいられて本当に良かった」と書いている。

 「間違いは間違いとする欧米の考え方も分かりますが、アメリカ一強ではなくなった世界で、そういう白か黒かというのは如何なものでしょうかね。むしろ、カンボジアは興味深いポジションを取っていますよ」。日本の大学で開発経済学を学び、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で学生ボランティアの経験もある彼らしく、こうも言う。「もし今、私が学生でこの国に来ていたなら、憤慨して何らかの行動を取っていたと思いますよ。ですが、もう立場が違うので…。それにしても、救国党の議員たちは"腰抜け"ですよ」。家族や支持者を含め200人以上が外国へ避難しているが、逮捕されても国内に踏み留まっていれば、そんな異常事態に国際社会の耳目がもっと集まり、民主派にとって新たな展開もあったはずだというのが彼の考えだ。

 「カンボジアのような小国ではなく、反民主化政策に転じたのが大国ならば、欧米は同じ対応を取っていたでしょうか。小国を舐めたような上から目線が、カンボジアを中国べったりにさせているんだと思いますよ」。日本人でありながら、長年この国に暮らす彼はカンボジア人の誇りも代弁する。

制裁の行方

 アメリカは一連の反民主化の動きを遺憾とし、カンボジア政府高官へのビザ発給停止に続き、政府間援助のカットや減額を決めた。それがカンボジアの中国依存をいよいよ高める措置であることを、ホワイトハウスが知らないはずはない。今回、不公正な選挙を押し通したカンボジアに対して、欧米諸国は経済制裁も辞さないだろう。無税で欧米へ輸出できていた衣料品や靴などに課税されれば、カンボジアの工場は国際競争に負けて閉鎖に追い込まれ、何十万という失業者が出る。その工員たちの殆どは地方からプノンペンへ現金収入を求めて出てきている人たちなので、全国の市民の暮らしを直撃することになる。だが、生活苦から民主化運動が盛り上がることは、あまり期待できないのが現代だ。

不気味な不安

 同じ東南アジアの旧ビルマ(ミャンマー)では軍事独裁政権に対して、市民が蜂起してゼネストやデモを起こしたり、ジャングルに立て籠もったりして闘う民主派がいた。今のカンボジアでそうした民主化運動が起こらないのは、やはり経済が滞ることなく成長し続け、政府に何のツテもない庶民の生活水準でさえ、年々上がって来ているからだ。

 野党は腐敗防止のほか、教育や福祉、医療に予算を注ぐといった公約を挙げていた。しかし、野党が政権を取ったからと、今以上に急ピッチで生活が良くなる保証はないのではと勘ぐり、逆に社会が不安定になったり、ひいては内戦が起きたりすることを危惧する人が少なくなかった。よく言われる喩えだが、「1カ月先の100ドルより、今日の1ドル」という感覚なのだろうか。いや、状況はもっと厳しく、甘美な夢より、不気味な不安の方が強かったのだろう。

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写真:21年前のクーデター直後、内戦を回避させたまでだと主張したフンセン氏。政権の座に40年君臨するかも…(筆者撮影)

民主主義“移植”から四半世紀

 1991年内戦に終止符を打ち、日本も参加した国連PKOを経て、1993年には暫定政府が発足したカンボジア。その過程を取材しながら、憲法草案を和訳したが、模範的な民主憲法だったことを鮮烈に覚えている。

 国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が撤収する直前、明石康UNTAC特別代表にインタビューしたことがあった。「我々は民主主義の種を蒔いただけで、あと水をやって育てるのはカンボジア人の仕事ですよ。英、仏、米だって民主主義が定着するまでに200年以上かかり、まだ完全なものではないでしょう。国それぞれのプロセスがあり、カンボジアらしい民主主義で良いということです」。彼は当時、独立自治の尊重とも、責任を限定した逃げとも取れる言い方で、カンボジアPKOの意義を振り返っていた。

 この国の知識人の間では今、民主主義が曲げられても、経済社会が安定している限り、もはや外国が政治介入してくる時代ではないという認識がある。北隣のタイが軍政下にあっても、東隣のベトナムが共産党独裁を続けていても、外国が民主派を直接大規模に支援したりはしていない。それはタイもベトナムも安定的な経済発展を遂げ、自由は制限されていても大半の国民が現状に妥協し、欧米や日本など民主国も貿易や投資で利益を上げられているからであろう。経済が上向いている限り、強権独裁は続きそうだ。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の動画企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

ジャーナリスト

全国紙と週刊誌編集部、ラテ兼営局でカメラマンや記者、ディレクターとして計38年、事件事故をはじめ様々な社会問題や話題を取材・報道してきました。そのなかで東南アジアは1987年に内戦中のカンボジアへ特派員として赴いて以来、勤務先の仕事とは別にライフワークとしています。東南アジアと日本は御朱印船時代から現代まで脈々と深い繋がりがあり、互いに大きな影響を受け合って来ました。日本の人口減が確実となり、東南アジアの一般市民が簡単に来日できるようになった今、相互理解がますます求められています。2017年に定年退職しましたが、まだまだ元気な現役。フリーランス・ジャーナリストとして走り回っています。

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