樋口尚文の千夜千本 第117夜「止められるか、俺たちを」(白石和彌監督)
若さゆえに描きえた、あのやっかいな時代
『凶悪』『彼女がその名を知らない鳥たち』『孤狼の血』と充実した娯楽作を送り出し続ける白石和彌監督は、その骨太な演出や若松プロでの修行経験ゆえについ忘れてしまうのだが、まだ40代も前半の世代である。そんな1970年代も半ばに生まれた白石監督が本作で描いた「生まれる前のオトナたちの世界(社会)」は、しかし当時を生きた元若者たちが観ても、ひじょうに好感と納得をもって受け止められるものではなかろうか。それはちょうど白石監督と一歳違いの若き冨永昌敬監督が、はるか先行世代の末井昭の奔放な文化的叛逆ぶりを『素敵なダイナマイトスキャンダル』で描いて出色だったのと似ている。
その理由については『素敵なダイナマイトスキャンダル』の評でもふれたのだが、若松孝二や末井昭といったカウンター・カルチャーの星たちに至近で伴走した人々はもとより、その影響にまきこまれた一般の体験者でさえも、同時代を知る者には過度な思い入れと反発、過剰な愛憎がつきものである。しかし、若き白石監督は若松孝二本人の現場を経験してはいるが、若松の最も過激なる試行の時代は生まれる前の「伝説」である。それゆえ、逆に邪魔な愛情や畏怖、反発にとらわれることなく、若松の青春のコアを直視、抽出できているという気がする。
それは白石の先輩である脚本の井上淳一監督とて同じで、たとえば劇中で佐々木守が『ウルトラマン』のジャミラの回で正義を相対化してみせたことにふれるように、たとえばそういう子ども番組から創造社の影響を受けていたという世代なのである。そして井上はそういうエピソードを典型として、自分が遅れてきた少年であることを隠さない。だが、もしも本作を劇中の若松プロの同時代者が撮ったら、ここまで素直で直球の内容にはしないで、なんとももやもやと悩ましいものになったことだろう。
そういう意味ではこの60年代の若松プロの様子を、門脇麦扮する助監督志望の女子・吉積めぐみをフィルターにして描いたというのも奏功している。これにより、若松を筆頭にひとクセもふたクセもある才能たちの梁山泊のごとき群像劇が、ごくストレートな(時にはメルヘンのような)青春映画になっていて、劇中で言うところの「尖った見手には届くがエロ目当ての大衆には受け入れられない」往年の若松映画とは違う、間口の広い作品を志向している。その点において、白石監督は息子の世代として、それだからこそ可能な屈託のない濾過を「若松孝二伝説」に施してみせたといえるだろう。
そういう意味では白石監督も脚本の井上監督も、劇中で引用または再現されるような若松映画の戦闘的でアヴァンギャルドな部分をあえて模倣継承することなく、独自のとても直球な作品を目指しているのに好感を持つが、これは演技に関しても同じことを感じた。その典型が若松孝二に扮した井浦新で、サングラスに下唇をとがらせて憎めない毒舌を吐き、実に機嫌よく師になりきっている。それはいわゆる完全コピーというよりは一種戯画的な誇張やおかしさを打ち出して、井浦なりのやり方で「若松孝二的なるもの」をひとつの明快なキャラクターとして再構築しているように思われた。これは若松に留まらず、その周囲を彩る猛者たち…足立正生も小水一男も秋山道男も荒井晴彦も大島渚も、「実録」というより「キャラ化」されていたように思うが、その方針で一定していることによって本作はとっつきにくく夜郎自大な回顧譚ではなく、若松というアンチヒーローを通して時代の熱気に翻弄された一女性の青春物語として、開かれた娯楽作になっている。
残念なことに私自身はほとんど若松孝二監督に接したことがなく、生前の大島渚監督から「若ちゃんはね」と主として『愛のコリーダ』製作時の資金繰りの大変さをめぐる逸話を伺うばかりであった。そして若松監督と最後に少しだけお話ししたのは、2010年の松本楼での佐藤慶さんを偲ぶ会で、「『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』が東京国際映画祭で上映された時、若きキャスト軍団を一堂に並ばせて全員に役名およびセクト名(!)を叫ばせたのは本当に感電しました」と申し上げたらたいそう嬉しそうな顔をしておられた。その翌々年には事故で忽然と他界されてしまったが、今回の愛弟子たちによる渾身のレクイエムには(それが自分ならまず選ばなかった構えで撮られている点において)天上でまんざらでもない笑みを浮かべておられよう。