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週刊ダイヤモンドと朝日新聞と安倍元首相と核シェア。記事の事前チェックは是か非か、雑感

おおたとしまさ育児・教育ジャーナリスト
(写真:イメージマート)

週刊ダイヤモンドが安倍元首相に行ったインタビュー記事についてなぜか朝日新聞の論説委員が「ゲラを見せろ」と言ったという事件が話題になっている。

安倍氏が直接編集部に求めるならまだしも、いくら安倍氏と仲が良かろうが核シェアについての知識があろうが後から出てきた第三者が口を出す話ではないことは、メディアの人間でなくてもわかるはず。

もし当該社員の主張のように、あくまでも核シェアの専門家としてのファクトチェックを安倍氏から頼まれたのなら、安倍氏側が編集部とやりとりして入手したゲラを見せてもらって安倍氏側に意見するのが、せめてもの筋だろう。

それにしたって、この問題について専門家にチェックしてもらわなければならない程度の知識しか持ち合わせていない安倍氏がメディアでこれだけ声高に訴えていること自体が根本の問題であると私は思うが。

以下、それに関連するけれど、それとは別の話として、日ごろからよく考えることを雑感としてまとめておく。

インタビューをもとにした記事の原稿を事前にチェックすることについての賛否は以前からある。インタビューする側にもされる側にもなる立場として、純粋にケースバイケースだと思う。

インタビューに応えるといっても、

(1)記事のコンテンツを提供している場合

(2)インタビューの内容自体を批評対象にされる場合

がある。

「中学受験の現状についておおたさんによる解説記事を当方で執筆させてもらいたいので、中学受験の現状について教えてください」と言われれば(1)だ。でも「おおたさんの中学受験観を批評したいので、話を聞かせてくれ」と言われたら(2)だ。

結論からいえば、(1)の場合は、確認させてもらったほうがより正確になるが、(2)の場合は確認するのは妥当ではないと考える。

いわば伝言ゲーム状態になる(1)の場合なら、事前確認することでなんら利益相反は起こらないし、記事の正確性を担保する意味で読者メリットが大きい。

事前確認を前提にすることで、二者間だけの信頼関係に基づいて教えてもらえる情報が得られることもある。それが背景理解となって、書ける部分だけを書いても記事に違いが出ることは多々ある。表だっては書けない氷山の下を知ることで、氷山の描き方が変わる。論理が明快になることもあるし、氷山の下の存在を行間に込めることも可能になる。この効果は大きい。

「氷山の下こそを直接描いてよ」という意見もあるだろう。もし、「それ自体を書いたほうが世の中のためになる」と思った場合には、「ここは書かせてもらえないか」と説得することはある。それで書かせてもらえることはある。しかし、書かない前提で教えてもらったことを勝手に書くことは、職業以前の倫理の問題としてできない。そういう場合には、別の角度からその問題に焦点を当てる方法を考える。それが新しい本の企画になったりする。

(2)の場合は、利益相反が起こる可能性があるので、事前確認はしないにこしたことはない。ただしその場合、記者がそのテーマに対して十分な基礎知識をもっていることが前提となる。そうでなければそもそも批評なんてできないはずだ。

基礎知識のない記者が、発言者の発言を、無知ゆえに曲解し、あるいは予め用意されていた論理構成にむりやり当てはめ、たしかに発言としてそうは言ったが、まるで違う文脈で発言が切り取られて使われてしまうケースは多々ある。本当に多々ある(自分が被害に遭ったケースだけでなく、知人から聞くこともあるし、他人のインタビュー記事を読んで記者の思い間違いに気づくこともある)。

基礎知識があるかどうかは、インタビューを受けていればわかる。でも、1時間や2時間のインタビューで基礎知識をぜんぶレクチャーなんてできないし、そんなことをする義理もない。そういう場合には、骨は折れるが、より慎重に言葉を選び、できるだけ明快な論理で話すようにする。

それでもわかってくれたんだかくれていないんだか不安なときは、私は「発言部分だけでいいので事前に見せてもらえませんか?」とお願いする。最近はたいてい応じてくれる。

案の定、木を見て森を見ずの書き方になっていることがあって、そういうときは、どういう基礎知識や観点が書けているのかを指摘させてもらう。たとえば、「この書き方だとこういう理由でこういうひとたちを傷つける可能性があるから配慮したほうがいい」などと指摘すれば、「その視点は欠けてました」となる。主旨さえ正確に伝われば、あとは自由に直してくれればいい。

また、(2)の場合は、批評される側には面白くない表現が含まれる場合がほとんどだ。それはインタビューされる側も甘んじて受けるしかない。公開された記事内容に対して「それは違う」と思うなら、しかるべき方法で反論すればいい。そこから論争が生まれる。それも大事なことだ。

(1)の場合であっても、事実の積み上げとして複数の素材を集めて、それらを対比しながら著者なりの考察としてまとめあげていくときには、著者の解釈が多分に入る。私の著作にはそういうケースが圧倒的に多い。その場合には、事実確認だけはしてもらう。

伝言ゲームである以上、いくら詳しく話を聞いても細かいところで、認識違いをしていることは我ながら本当に多い。確認してもらって自分の事実誤認に気づいたことは恥ずかしながら多々ある。

ただし、著者の意図とずれる赤字については反映できないことをお伝えする。自分の意に反する赤字は絶対に受け付けないという強い信念がないとこれはできない。実際にもらった赤字を反映しないことはよくある。理由はちゃんと説明する。

それでもごく稀に「だったら載せられない」と言われることがある。そういう場合には「だったら載せなくてもいいです。ただし、なぜこれが載せられないのか文書でください。その文書をそのまま掲載します」と返事することもある。要求が悪質な場合には、そういう要求があったこと自体を書く。それはむしろネタとして、おいしい。

(1)の形でインタビューを受けた際に、原稿を見て、「あちゃー」と思うパターンとしては多いのは、インタビューする側とされる側の二者間では事前知識が共有されていることを前提に、それを端折って話をしたところ、その前提を共有していない読者に対してもそのままのトーンで語りかけてしまっているときだ。

不安なときにはインタビューの段階で「そうはいっても読者はこういうことを知らないと思うので、書き方には注意してください」などと、自分たちと読者の間に前提情報のギャップがあることを指摘するように気をつける。

原稿を事前に確認してもらうなんてジャーナリズムじゃないという意見は昔からある。でも、そんな言葉の定義に縛られること自体が思考停止だと私は思う。読者メリットを考えて、必要ならば、意に反する赤字は反映しない信念を前提に事実確認をすればいいし、リスクのほうが大きいと感じれば、事前確認をしなくていい。

言葉の定義や社内ルールや慣習に縛られて思考停止になるのではなく、読者メリットと公共の福祉と倫理観を前提に、潜在的なリスクを予見し、ケースバイケースで判断できる能力こそが求められる。常に迷いや葛藤や恐怖を抱えながら。

育児・教育ジャーナリスト

1973年東京生まれ。麻布中学・高校卒業。東京外国語大学英米語学科中退。上智大学英語学科卒業。リクルートから独立後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を歴任。男性の育児、夫婦関係、学校や塾の現状などに関し、各種メディアへの寄稿、コメント掲載、出演多数。中高教員免許をもつほか、小学校での教員経験、心理カウンセラーとしての活動経験あり。著書は『ルポ名門校』『ルポ塾歴社会』『ルポ教育虐待』『受験と進学の新常識』『中学受験「必笑法」』『なぜ中学受験するのか?』『ルポ父親たちの葛藤』『<喧嘩とセックス>夫婦のお作法』など70冊以上。

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