「映画を見ることで子どもたちの心に強さが宿る」途上国で活動する移動映画館の役割とは
映画館のない、村の空き地や小学校にスクリーン、スピーカー、プロジェクター、そして発電機が運び込まれ、移動映画館が現れる。「映画を見ることで、子どもたちの心の中に強さやきっかけが芽生えることを信じたい」と話すのは世界の子どもたちに移動映画館で映画を届ける活動をするWorld Theater Project代表の教来石小織(きょうらいせき・さおり)さん。
コロナ禍でその活動は、一時休止に追い込まれた。「映画が、命を危険にさらす恐ろしいものに思えた」。活動自体続けていいのか悩むようになった彼女が、この夏、ある再会をきっかけに答えを出した。彼女の足跡を追った。
「途上国に映画館をつくりたい」
2012年の秋に、スクリーンにするための白いシーツとプロジェクター、そして忍者が出てくる邦画を一本携えカンボジアに飛んだ。その後1歩1歩あゆみを進め、2021年現在までに映画を届けた子どもの数はのべ約8万人、地域は15カ国にのぼる。現在カンボジアでは、トゥクトゥクドライバーをなりわいとしているスタッフを雇用して定期的に映画を届け、カンボジア以外の地域では現地でさまざまな活動をする個人や団体にコンテンツと上映機材を貸し出して「映画配達」をしてもらっている。こうして現地で直接子どもたちに映画を届けに行く人を、親しみを込めて『映画配達人』と呼んでおり、多くの協力者の手で活動が広がってきたことがわかる。上映するのは主に日本のアニメーション作品。配給会社から、各地域で上映するための権利を取得した上で現地の言語による吹き替え版を作っている。しかし現実にはまだまだ、上映できるエリアの拡大、作品数の拡充やセリフの多言語化の壁は厚い。一方で2019年にはバングラデシュの映画配達人によって、地元の子どもたちによる吹き替え版制作も行われた。制作したのは国の公用語であるベンガル語、少数民族の1言語、さらにロヒンギャ難民キャンプでは、彼ら自身の言葉で吹き替えていくことでそのアイデンティティーを尊重したいという思いも込められた。
「自分の子どもに恵まれないなら、世界中の子どもたちのために」
2012年の夏、教来石さんが映画を届ける活動を始めるきっかけとなった出来事がある。子宮頸がん検診で異常が見つかり、結果はがん細胞ではなかったもののその後3ヶ月ごとの定期検診が必要になった。その時の不安な気持ちが強い思いを抱かせた。「もしも、自分の子どもを持つことが叶わないのならば世界中の子どもたちのために何かしたい。自分の夢は諦めたけれど、自分以外の誰かの夢を全力で応援したい。」その後、2017年に結婚した夫・中塚庸仁さんは2015年から活動をともにしてきたメンバーである。現在は企業に勤める傍ら団体の事務局長を務めている。2人で不妊治療を始めるのだが、出産にたどり着くまでに何度も壁にぶつかることになる。子宮外妊娠をしたのち、世界でも症例の少ない虫垂出血に。不妊治療は中断が続き養子縁組という選択肢も浮かんでくる。そして不妊治療を再開しようとしていた矢先に妊娠が分かったのは、2020年の始めのことだった。ようやく安定期を迎えると今度は切迫流産になり、子宮頸管無力症が診断される。子宮から体外につながる子宮頸管が著しく短くなっていて、流産する恐れが極めて高い状態であった。4ヶ月寝たきりの状態で、じっと体を動かさず、その命とのみ向き合い続けた末に生まれてきた我が子だった。「それまでは映画を見る子どもたちを眺めるのが、自分と子どもたちとの距離だった」と振り返る教来石さんだったが、今はこう感じている。「子どもの重さや暖かさが物体として分かって、世界の子どもたちに感じるかわいさや愛おしさが何倍にもなった」
「子どもたちの命を危険にさらしてしまう」
出産後、復帰した教来石さんを苦しめたのは、新型コロナウイルスへの恐怖だった。移動映画館は全ての地域で休止し、映画は不要不急のものであるという現実を突きつけられた。映画を届けられていない状態では支援者からの寄付は受け取ってはいけないのではないかという思いに苛まれる一方で、仕事を失うことになるカンボジア現地の映画配達人たちの雇用は継続しなければ、彼らの生活に関わる。「気力がなくなり、全てマイナスに捉えてしまうし、ぼんやりしてしまう」そんな日々を過ごしていた。
「サンデーが日本で頑張っている」
活動の支援者に向け、移動映画館の休止を発表したオンラインイベントで不意にその言葉を教来石さんに投げかけたのは、カンボジアで日本語教室を主宰する鬼一二三(おに・ひふみ)先生だった。初めての上映をさせてもらった日本語教室であり、そこへ映画を見に来た一人が当時日本語を学んでいたニウ・サンデーさん。「この映画は私を強くしてくれました。夢は大きく膨らんでいる」映画を見た後にくれた感想は、教来石さんの心に強く残っていた。この時に見た作品は、クメール語に吹き替えた日本のアニメ映画。最初に上映を行った翌年に、カンボジアの言葉で吹き替えたものを初めて持って行った時のことである。一二三先生が口にしたサンデーさんの名前は、教来石さんに一筋の光を見せてくれた。今だからこそできることがあるのではないか。映画を見た子どもたちの心に、その体験がどんな風に残っているのか、これまで聞けたことはなかった。子どもたちのその後の変化や成長を追えず、効果を可視化できていないことは活動が抱える課題の一つだった。教来石さんにとって、何よりもサンデーさんと再会できることそのものが、今、前に進む力を与えてくれるように思えた。
「お母さんのことを思い出していた」
カンボジアで8年前に鑑賞した日本のアニメ作品は、森で育った子どもが夢を持ち、母を離れ、都会で努力し成長していく物語。サンデーさんの記憶に残っていたのは、その2年前に他界した母を思い出していたという感情だったという。母の愛情、そして母と別れる悲しみが自身の経験と重なって思い出されていた。2人の姉と弟1人を持つ4人兄弟のサンデーさんは、アンコールワットが有名なシェムリアップで生まれ育った。その観光の街で日本語ガイドをしていた姉の影響で、自身も同じ職業を目指し日本語教室に通い始めた。大きなスクリーンで映画を見るという体験はそこで初めてしたという。仲間たちとともに笑い合いながら見た映画の体験や、日本から来てくれたボランティアの人たちとの出会い全てが「夢はもっと大きい」と教えてくれ「誰かの役に立てるようなことがしたい」と思うようになったとサンデーさんは語る。サンデーさんはカンボジア国内での日本語のスピーチコンテストで優秀な成績を納めたことで日本の大学へ進学する切符を自らつかみ、現在は特定技能外国人をサポートする仕事に就いている。
「映画は人をつなげる力がある」
サンデーさんと再会した日の夜「サンデーちゃんと私をつないでくれていたのは、あの時一緒に映画を見たということだけ」とつぶやいた教来石さん。映画が人と人とをつなげてくれることを強く感じたエピソードがある。活動を始めた場所であるカンボジアでは1970年代、反政府勢力であったクメール・ルージュによる独裁政権下で、旧体制派や知識人・文化人の大量虐殺が行われた。国民もまた家族や宗教といった暮らしの根幹から否定され、労働を強いられた。映画関係者も文化人であるとして排除の対象となり、それまで映画大国であった国から制作者も俳優も、フィルムも映画館も無くなってしまった。教来石さんは、現代の若者の視点からそうした歴史を描いたカンボジア映画『シアター・プノンペン』をタイの国境に近い村に上映に行ったときのことを思い出していた。その村は内戦が最後まで続いていた地域で、元クメール・ルージュの兵士も他の村人と同じように暮らしている。カンボジアには今も各地にそうした地域があるため、国内ではクメール・ルージュ時代の話題が持ち出されることはめったにない。映画が終わった後、見にきていた村の人たちが帰らずに話し込んでいるので教来石さんが近づいていくと、一人の男性がパッとサンダルを脱ぎ、地雷で無くなった親指を見せてくれた。映画を見て「戦争は良くない」と誰よりも強く主張していた彼自身が、元クメール・ルージュの兵士だったことを明かしてくれたという。「お互いに戦争の話をすることがなかった村人同士をつなげてくれたのも映画の力だと思った」と語った。
「映画はヒカリを与えてくれるもの」
映画の良さは何だと思うかと問う教来石さんに、サンデーさんが告げた言葉である。教来石さんは母の影響で映画の世界にのめり込み、自身はたくさんの影響を受けてきたのだが、映画を見た子どもたちの成長を見届けられていないため、本当に意味のある活動なのか自信が持てずにいた。サンデーさんの言葉から、少し自信を取り戻せたように感じている。今思うことは、これまで以上に子どもたちに寄り添える形を作り、みんなで一緒に映画を見られる場をつくり続け、さらに、世界の果てまでも映画を届けたい。アフターコロナに向けて、活動10周年を迎える2022年の9月に移動映画館の再開を考えている。
サンデーさんと8年ぶりに一緒に映画を見ようと会う日取りを相談し合っていた最中、サンデーさんから妊娠の知らせが届いた。当日、0歳の息子と教来石さん、サンデーさんとそのお腹に宿った赤ちゃんの4人で思い出の作品を見られたことに、「この空間がとても愛おしい。この日を一生忘れないだろうな」とつぶやいた。
クレジット
監督/撮影/編集 内田英恵
協力 キネマフューチャーセンター