若者に「わかるよ」と簡単に共感すると、中年は逆に信頼を失う〜わからないものはわからないと言おう〜
■共感しないといけない風潮は、いつから生まれたのか
現在は、共感的に話を聞かなければ絶対にダメという時代になっています。マネジメント研修などを受けることになると、部下と話をする際には、共感をしながら耳を傾けて聴かないと、相手は積極的に話す気になれないから、きちんと共感しようねと、最初のほうに出てきます。
元はと言えば、カウンセリングの元祖とも言われるカール・ロジャーズの言う「共感的理解」が、マネジャーの部下に対するコミュニケーションでも重要だとなったものだと思われます。
会社は学校とは違い、年齢差が大きい集団ですから、中年、若者双方にとってぱっとは理解できないこと、共感できないことが多くて当然です。「だからこそ、積極的に共感しようぜ」というのが、よく言われていることなのですが、そんな努力にもかかわらず、実際にはタイトルのように若者の信頼を失うことが多いのが現実です。我々中年は一体どうすればよいのでしょうか。
■むしろ人は簡単に共感されると、ムカつく生き物
まず、申し上げたいのは、嘘はいかん、嘘は、ということです。40代以降とか中年世代が、本当に20代の若者のことを理解して、共感しているのであればよいですが、それは本当でしょうか。本当に本当でしょうか……嘘ですよね。
そもそも、世代のギャップなどが無かったとしても、人はそんなに簡単に共感や理解などできません。それなのに、「わかっている」と言われると、言われた方は言った方の意図とは逆にムカつくことでしょう。「立場の違うあなたがなぜ私のことをわかるのか」とか「万一、もし本当にわかっているんだったら、なんであれやこれをしてくれないんだ」とか、いろいろな思いがこみ上げてくると思います。距離を縮めたくて共感の姿勢を見せているのであれば、なおさら逆効果です。そんな遠くにいる人がいきなり共感だなんて、違和感を持たれても仕方がありません。そんな共感をするのであれば、わからないものはわからないという姿勢で臨むほうがだいぶマシです。
■本来の共感は「シンパシー=同情」ではなく「エンパシー=想像」
この「上司は部下に共感すべし」の、そもそもの元ネタとも言える上述のロジャーズの定義する「共感的理解」も、実は、「相手の私的な世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じ取り、しかもこの『あたかも~のように』という性質を失わないこと」と定義していることにも注目です。特に後半の「あたかも」を失うな、というところです。言い換えれば、実際には理解なんてできてないということを忘れるなということでしょうか。
「共感的理解」の原語も、“sympathy”(≒同情)ではなく“empathy”(≒感情移入と訳されることが多い)であり、相手の気持ちをさもわかったように、オレも同じ気持ちだと同一化して振る舞うことを指してはいません。似て非なるものですが、大事なのは相手の気持ちを理解しようと、相手の立場をイメージしてどんな気持ちだろうと想像する(感情移入)ことではないでしょうか。
■共感していることではなく、共感しようと努力することが評価される
ですから、20代の若者に中年世代が「わかるよ」と軽々しく言ってはいけません。もちろん悪意はないことは承知していますが、それでも相手を不快にさせてしまうかもしれません。つい「わかるよ」と言ってしまう中年世代の本意を汲むなら、おそらく「わかるよ」ではなく、「わかろうと努力をして一生懸命想像をした結果、このような気持ちではないかと思ったのだけれどもどうだろうか」ということではないでしょうか。
もし、こう告げたのであれば、その答えがいくら的外れであったとしても、世代ギャップや立場の違いを乗り越えて、本気で自分のことを理解しようと努力してくれているということが伝わり、そのこと自体についてはさすがに若者自身もムカついたりはしないのではないかと思います。そして、間違っていれば、「本当の僕の気持ちはこうなんですよ」と、胸襟を開いてくれるかもしれません。これで、ムカつかれるのであれば、別の理由があるのでしょう……。
※OCEANSにて、中高年の皆様向けに、20代を中心とした若手を理解するための記事を連載しています。よろしければ、こちらもご覧ください。