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「一段一段下りないように」引退から7年、モーグル上村愛子さんの今

元川悦子スポーツジャーナリスト
大好きな白馬と雪山をバックに最高の表情を見せる上村さん(写真提供:上村愛子)

「なんで一段一段なんだろう」

 11年前の2010年のバンクーバーオリンピック(五輪)で、上村愛子さんが涙を流した姿は、今も多くの人々の脳裏に焼き付いて離れない。「最後の最後」と位置付けた2014年ソチ五輪もメダルには届かなったものの、納得して現役を退いてから7年。五輪5大会連続出場のモーグルのヒロインは、今も愛する故郷・白馬の雪山でスキーを楽しんでいる。

 先輩・里谷多英さんへの思い、メダルの重圧、揺れ動く東京・北京両五輪、そして、コロナ禍だからこそ伝えたいこと…。

 どこまでも前向きな彼女が「今の一段一段」を清々しい笑顔で語った。

「モーグルって知ってます? 私は飛ぶのが一番好きなんです」

 1998年長野五輪前に放映されたオフィシャルスポンサー・日本IBMのCM。八重歯が印象的な17歳の女子高生がイキイキとコブを滑る映像は日本中に鮮烈な印象を残した。

 一躍ブレークした上村愛子さんは、長野県白馬高校在学中に出場した地元での初五輪で7位入賞。金メダルを獲得した里谷多英さんとともにモーグルのヒロインとなった。

アイドルみたいに注目された女子高生

――五輪で人生が変わりましたか?

「長野の1年前にCMに出させていただいて、ものすごく有名になってしまい『五輪選手になるとこうなるんだ』と思ってました、純粋に」

――当時のアイドル的な見方はどう感じていました?

「嫌な感じはなかったですね。かわいいと言っていただけるのはうれしかった。結果を期待されましたが、私の中では『里谷さんという大先輩がいるのに私がメダルを取れるわけないじゃん』って当時は開き直ってました(笑)」

98年長野五輪でエアーを決める(写真:アフロ)
98年長野五輪でエアーを決める(写真:アフロ)

「里谷多英さんは違うからこそ大好き」

――冬季五輪で2度のメダルを取った先輩・里谷さんはどのような存在ですか?

「今でも多英さんの本気の滑りは誰も敵わないんじゃないかっていうくらい技術が高くて、スピードも速かった。体力、メンタルも含めて持ってるものが全然違うんです。『多英さんのマネをしたら勝てるのかな』と1シーズンだけやってみたことがあるんですけど、私は成績が落ちるのに、彼女はここ一番で力を出す。あれはもう衝撃的でした。マネをしても多英さんを超すことは絶対にできないし、コツコツとやっていくしかないと痛感しました。私は多英さんとは全く違うからこそ大好きなんです。『2人を足して割ったらメチャクチャ強い選手だったね』と引退後に2人で笑い合いました」

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里谷多英さんとは今も仲良しだ(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
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 今でこそ自分自身を冷静に客観視できる上村さんだが、現役時代は五輪メダルの呪縛に苦しんだ。長野の7位に始まり、2002年ソルトレークシティーが6位、2006年トリノが5位、バンクーバーが4位とどうしても表彰台に手が届かず、悩み抜いたからだ。

メダリストになれなかったから分かること

――トリノの頃は「メダルの重圧」に苦しんでいたように見えました。

「確かに背負ってました(苦笑)。モーグルは小さなコミュニティーなのに、応援してくれる関係者やスポンサーがたくさんいました。『結果を残さないとそういう人たちへの恩返しにならない』と思っていたんです。正直、苦しかったですね」

――バンクーバーで悔し涙を流し、ソチに再挑戦して感じたことは?

「メダルを取れなかった現実を突き付けられたけど、取り組んだ過程は金メダルを取った選手も4番の私も変わらないと思うんです。頂点を目指して努力したことに嘘はないので、そこは自信を持った方がいいと最後の最後に思えるようになりました。『メダリストになれなかったから、私はダメだった』という気持ちはなくなったし、そこまで最善の過程を経たと思えたら納得できるんだと分かりましたね」

2014年ソチ。最後の五輪で渾身の滑りを見せる上村さん(写真:長田洋平/アフロスポーツ)
2014年ソチ。最後の五輪で渾身の滑りを見せる上村さん(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

五輪4位に「納得して引退できた」理由

――「メダル」より「最善の過程」に価値を見出せたターニングポイントは?

「バンクーバーでやめるにやめられない結果が残って、その後、1年間休んだのが大きかった。休む前は足りないものをどんどん足している状態で、鎧を身に着けてるイメージだったんですけど、バンクーバーの後はその鎧を1回脱ぐことができたと思うんです。『私は何のために金メダルを取りたいのか』も真剣に考えました。誰かにやらされてるわけじゃないことに気付いて、すべて腑に落ちたというか、すごく気持ちが楽になったんです」

――2009年に結婚されたことも大きかった?

「(元アルペン代表の皆川)賢太郎さんが『愛子はすごいがんばってる』と言ってくれたのは大きかったです。私から見ても比にならないくらいトレーニングしてましたし、尊敬する選手だったからそう表現してもらえたのはすごくありがたくて、『自信を持っていいんだ』と背中を押してもらえた」

――最後のソチの4位を今、どう感じます?

「バンクーバーでやめなくてよかったし、ソチまでやり切ってよかったと感じます。納得して引退できたので、『もうこれで十分』って気持ちになるまでは諦めずに道を探ったり、やり続ける時間があってもいい。コロナ禍の今もポジティブに捉えるのは難しい状況ですけど、乗り越えた時の喜びはすごく大きいと思います。『みんなでよくがんばったね』という一体感も生まれるはず。その時が待ち遠しいです」

「やり切った」という気持ちが表情に表れた(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
「やり切った」という気持ちが表情に表れた(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

 2014年の現役引退から7年。上村さんは新型コロナウイルスによってできた時間を活用し、愛する故郷の雪山や自然をSNSで積極的にアピールするようになったという。

「今は一段一段下りない」生き方

――今はどのように過ごされていますか?

「コロナ禍で雪山に遊びに行きたくても行けない方もたくさんいらっしゃるので、白馬のキレイな景色を届けたいなと。『落ち着いたらまた行きたいです』というコメントもいただいてますし、そういう形でみなさんを少しでも応援できたらいいなと考えています」

――どういった思いから発信を?

「コロナ禍でも自然の美しさは変わらない。そのことを少しでも発信したいと思って始めました。今は世の中が止まってますけど、時間は動いている。私も完ぺきに止まることがないように、『あの時、がんばってよかった』と言えるような時間にしたい。そんな気持ちが強くなって、活動を始めました」

白馬三山。黒菱ゲレンデより(写真提供:上村愛子)
白馬三山。黒菱ゲレンデより(写真提供:上村愛子)

――「困難のない人生は無難な人生、困難のある人生はありがたい人生だ」という言葉が好きだと伺いました。まさに今、みんなに言い聞かせたいです。

「コロナもトンネルの出口は必ずあると信じています。五輪を目指すアスリートも苦しいし、積み重ねてきたものを発揮できる場所がほしいでしょう。ただ、選手は決定に従うしかない立場。五輪自体がなくなるわけじゃないので今はまだ希望を持っていたいです」

――今、一段一段、登っているのは?

「一段一段登ってるというよりは、一段一段下りないように、自分の好きなことをいつまでもできるようにしていたいです。年齢を重ねれば緩やかに下りていきますけど、スキーの技術を磨くことや今まで滑ったことがない場所を滑るといった楽しみを見つけていきたいなと思ってます」

――最後に引退後の人生に点数をつけるなら?

「100点をあげたい。その時の自分が一生懸命に出した答えの先に今の自分がいると思うので、どんな決断も100点にしておこうと思います」

 つねに自然体で一歩一歩、着実に歩み続ける上村さん。その姿勢は五輪で高みを目指し続けたトップアスリート時代も今も変わらない。メダルの重圧に苦しみ、乗り越え、力強く生き抜いてきた彼女のメッセージはこれからも多くの人々を勇気づけるはずだ。

上村さんの笑顔はいつもまぶしい
上村さんの笑顔はいつもまぶしい写真:西村尚己/アフロスポーツ

■上村愛子(うえむら・あいこ)

1979年12月9日生まれ。兵庫県伊丹市出身。2歳のときに長野へ引っ越し、その後スキーを始める。高校3年生で初出場した1998年長野五輪で一躍注目を集める。2002年ソルトレークシティー五輪は6位、2006年トリノ五輪は5位と順位を上げた。2008年には日本人初となるワールドカップ女子モーグル総合優勝を果たす。2010年バンクーバー五輪ではメダルに届かず、4位に終わる。その後、1年間の休養期間を経て、選手復帰し、2014年に5度目の五輪となるソチ五輪に出場。4位となり5大会連続入賞という快挙を成し遂げた。同年3月に現役引退。

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スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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