違いが分からないことの幸せ
■私は違いが分からない
縁あって京都の能の舞台を観に行った。
重要無形文化財の能楽師のお弟子さんのお披露目会のようなもので、師匠の先生のお手本も観ることができた。
素晴らしかった…
いや、嘘。
いや、嘘ってことはないか。
というのは声やら仕草やら、ハッとするくらい素晴らしいなあとは思ったが、それ以上具体的に詳細にその素晴らしさを説明できない。
また、他の「ふつうにうまい」ぐらいの人となんとなく違うのは分からないでもないが(それすら錯覚かも)、どのくらい、なぜ違うのか分からない。
たまに、クラシックとかで「やっぱりカラヤン(くらいしか思いつかない)は違うわー」などと言う人がいて憧れる。
■分かっていると思っている人は本当に分かっているのか
しかし。
一方で、「本当に分かってるのだろうか…」「どんな頭の中をしているのだろう…」とも思う。
芸能人格付けチェックの番組が人気があるのは、僕のような違いの分からない人、違いの分かる人のことが分からない人が多いからだろう。
音楽や芸能以外でも、味は特に自分にとっては謎の領域で、主観的には「うまい」ぐらいの感覚しかない。そして、だいたいのものは「うまい」。
例えば、会食が多いため、たまにいるやたらワイン好きな人を除けば、それなりの本数を長年にわたって飲み続けてきたが、一向にワインは分からない。「なめし皮」の香りなんてしたことがない。
■情報を食べ、飲み、聴き、見て、味わっている
要は、全くコルブの経験学習が回っていないのだ。
せっかくのワイン経験を概念化しようと、知識を入れる努力は少しした。ただし、課長島耕作のワイン本(島耕作はワインの商社に出向していたことがある)とか「美味しんぼ」とかでだが。
ボルドーとかブルゴーニュとかピノ・ノワールとかカベルネソーヴィニヨンとかの言葉はなんとなく慣れてきたが、それが何だったのか、どんなものだったのか、全然頭に中身が入ってこない。見事なまでに入ってこない。
そもそも味覚の時点で味わい分けられていないから、知識と感覚がつながらないのか。
というわけで、人生折り返し地点を過ぎた自分としては、「違いの分かる男」になることは諦めた。特に未練はない。
鮨好きで有名なホリエモンさんが「鮨を、情報で食べている人がいる」とか言っていたが、自分は完全にそれだと思う。誰かがうまいというからとか、これは大間のマグロだからとか、明石の鯛だからとかで、うまく感じる。
■違いが分からないのも幸せ
でも、それでいい。というか仕方ない。味覚の臨界期はとうに過ぎた。そもそも「本当にうまい」と「うまい気がする」の違いはなんなのか。
「違いの分かる人」が幸せかどうかも微妙だ。いくらでもお金や時間があって、良い店に行けたり、自分でちゃんと料理できれば良いが、そうでなければどうなるのか。
なまじ違いが分かるだけに、まずいものも分かってしまう。うまいものを知る彼らにとっては世の中の食べ物はまずいものだらけだろうから、毎日まずいものを我慢して食べ続けなくてはならない。地獄だ。
一方、我らが「違いの分からない派」は、毎日「これ、おいしいわー(ほんとはまずい)」と幸せに生きていける。騙されることの幸せというのもある。ペヤ●グとか、ファ●チキとか、うまいではないか(いや、ほんとにうまいです)。
まあ、どちらを選ぶかという話ではなく、もう既に違いの分かる側に行けなくなった男の話なのですが。