習近平の行動哲理【兵不血刃】(刃に血塗らずして勝つ) 狙うは多極化と非米陣営経済圏構築
習近平の行動哲理はは荀子(じゅんし)の【兵不血刃(ひょうふけつじん)】=【刃(やいば)に血塗らずして勝つ】だ。台湾平和統一然り、「米一極から多極化への地殻変動」然り。最後に笑うのは誰かを狙っている。中国経済が芳しくない中、米政府高官の北京詣でが続いたのもその現象の一つだ。
◆毛沢東の行動哲理は荀子の【兵不血刃】
2013年12月26日の「半月談」(中共中央宣伝部委託新華社主宰の隔月版雑誌)は、「毛沢東の尋常でない読書量に関しては今さら言うまでもないが」と断った上で、毛沢東がことのほか、荀子(じゅんし)に深い興味を持っていたことを紹介している。
荀子というのは紀元前313年頃から238年(諸説あり)まで生きていた中国戦国時代末期の思想家・哲学者で、「性悪説」で知られる。荀子は農業こそは国家の富の生産の最も重要なもので、「人々がただ学者でしかなく(思想・哲学のみを語り)、産業や商業に力を注がないと、国家は貧しくなる」と断言している。毛沢東は荀子哲学の中でも、特に【兵不血刃】(刃に血塗らずして勝つ)が気に入っていた。
そのため毛沢東は農業を重んじ、また「農村を以て都市を包囲する」という、【兵不血刃】の哲理で戦うことを得意とした。
筆者が1947年末から1948年9月まで経験した「長春包囲作戦」はその典型だ(詳細は『もうひとつのジェノサイド 長春の悲劇「チャーズ」』)。武器の少ない毛沢東は、長春を食糧封鎖して一般庶民を餓死させ、長春市内にいる国民党軍の第六十軍を共産党軍側に寝返らせ、48年10月には長春陥落に成功している。その瞬間、共産党軍は一気に南下して、つぎつぎと大きな都市を解放し、「台湾だけを残して」勝利したのである。こうして1949年10月1日に新中国、中華人民共和国(=現在の中国)が誕生した。
数十万に及ぶ一般庶民が餓死しても、軍同士は戦火を交えず一瞬で勝利している。「戦火を交えないで勝利した」という意味では、これはあくまでも「刃に血塗らずして勝利した」=【兵不血刃】なのである。
◆習近平の行動哲理もまた荀子の【兵不血刃】――エロ本から古典に興味
1953年に生まれた習近平は、1962年に父・習仲勲(しゅう・ちゅうくん)が鄧小平の陰謀により失脚してからは中南海を追われて、一時期だが中共中央党校のキャンパスで暮らすようになった。それまでは特に読書家というわけではなかったようだが、15歳の時にキャンパス内で書物を移動させる担当者の手伝いをすることになり、運ぶついでに何冊か頂戴してこっそり読み始めたとのことだ。
2016年10月14日の新華網の<習近平書記の文学への愛情>という記事によれば、習近平が最初に接したのは「古代のエロ本」として有名な『三言』だったという。これは中国古典の中でも際立って露骨な性描写がある明朝時代の代表作で、一般に親は子供に読ませたがらないものだが、15歳になっていた習近平は、それをくり返しくり返し読んだと本人が言っているのだから、本当なのだろう。
もっとも、この本には『喻世明言』、『警世通言』、『醒世恒言』といった、教訓のようなことが多く、「こういうことをしてはだめですよ」とか「こういうことをすると、こんなに悲惨な運命が待っているので、気を付けましょうね」といった種類の警句が数多く収められているので、習近平はそれらの警句を今でもそらんじていると言っている。その後、中国古典に深く興味を持つようになり、あらゆる種類の書物を読んでは、そこから多くの教えを学び取ったと、習近平本人が述懐している。
結果、残ったのが、毛沢東と同じく「荀子の哲理」であった。
しかも、やはり【兵不血刃】だ。
いま習近平は「米一極支配から多極化への地殻変動」を狙っている。その手段として【兵不血刃】が軸にあるとすれば、長春陥落後に一気に共産党軍が全国を占拠したように、中国崩壊論に躍起になっている間に、気が付けば習近平が狙う地殻変動が一瞬で起きてしまっていたという事態にもなり兼ねない。
まるでオセロの駒が一斉にひっくり返ってしまったような現実を見ることになってしまうかもしれないのだ(『週刊エコノミスト』創刊100週年号「なぜ習近平外交は中東融和を加速させられたのか」でも触れた)。
あの言論弾圧をする中国によって構築された新秩序の世界で生きていくことなど、考えただけでもゾッとしないか?
そうならないためにも、いま何が起きているのかを、【兵不血刃】を通して知っておくことは世界情勢を分析する際に不可欠だと思う。
◆ウクライナ戦争「平和案」は【兵不血刃】の極意
今年2月24日に中国は「ウクライナ危機の政治的解決に関する中国の立場」という十二項目から成る文書(和平案)を発布した。この「和平案」には、ロシア軍のウクライナからの完全撤退などは記されていない。これでウクライナが吞むはずがないため、何の役にも立たないと多くの西側諸国は高(たか)をくくっていたが、事実は全く異なる。
ウクライナを侵略したロシアに対する制裁に賛成している国と地域は全世界でわずか48に過ぎず、人口比で見ると、全人類の85%が対露制裁に加わっていない。これらの国々は、アメリカの一極支配による制裁外交に反対している、いわゆる「非米陣営」だ。おまけに、対露制裁によってエネルギー資源の価格高騰や食糧不足を招き、多くの発展途上国や新興国を苦しめている。だからこぞって、85%の国と地域が習近平の「和平案」に賛同の意を表し始めたのだ。
こうして出来上がったのが、7月8日のコラム<加速する習近平の「米一極から多極化へ」戦略 イランが上海協力機構に正式加盟、インドにはプレッシャーか>で描いた図表である。それを改めて本コラムでの図表1として以下に示す。
図表1:OPECプラス、上海協力機構およびBRICSの相関図(5月17日時点)
7月17日のコラム<「中国・サウジ間にくさび」など打てない岸田首相 日本国民の問題解決に専念すべき>に書いたように、数千年の中華の知恵である【兵不血刃】戦略に、今さら割り込もうとしても、「くさび」など打てるはずもないのである。
7月14日のコラム<NATO東京事務所設立案 岸田首相は日本国民を戦争に巻き込みたいのか?>に書いたように、日本はただ単に対米隷属を遂行しているだけで、NATOを重んじるバイデン政権が来年の大統領選で敗退し、「NATOなど要らない」と言っているトランプ政権が復権したら、どうするつもりなのか。日本自身の深い思考に基づく戦略がないから、右往左往するだけだろう。
◆中国は国内経済不況でも多極化を重視
とは言え、中国経済の低迷は誰の目にも明らかだ。ゼロコロナ政策を停止した今年に入ってからも、そう急激に良くなる兆しは見えていない。
そこで、これに関しては高齢の中国政府元高官に聞いてみた。
煩わしそうに、彼は大雑把に以下のように答えた。
1.アメリカが中国を潰そうと、あれだけ次から次へと制裁を加えてきているんだから、成長できるはずがないだろう。
2.それでも、中国はアメリカに依存しない独自の経済圏を構築しようとしている。目先の細かな変動に、いちいち目くじらを立てるな。
3.(不動産バブルに関して聞くと、一層不機嫌になり)どこの国だって一つや二つ、大企業が倒産することだってあるさ。しかし、忘れてもらっては困る。中国は「社会主義国家」なんですよ。恒大集団だって、ほとんどは融資しているのが国営の銀行なんだから、他国のように不動産バブルがはじけたから銀行の倒産が連動するという現象はないんでね。勘違いしてないかい?
4.そうそう、民間のウェブサイトに面白いのが載っていたから、それを見て勉強してみると良いんじゃないのかい?(電話取材回答結果は以上)
今回はいやに偉そうだが、筆者よりも高齢なので仕方ない。それに質問の内容が不愉快だったようだし、ここはおとなしく教えてもらったウェブサイトにアクセスしてみることにした。
そこには6月27日に発表された<最近の国内経済下降の原因を解読する>というタイトルで、民間のコンサルティング会社のような「万庚数科」の分析結果が載っていた。これ自身、非常に長いものでもあり、著作権もあるので、それを全て紹介するのは適切ではないが、二つのグラフが気になった。
一つ目は電話取材の「1」で触れている「アメリカの制裁」に関してだ。
たしかにアメリカの対中制裁効果は相当に効いていて、これまで主としてアメリカに輸出してきた製造業の製品がかなり減っている。
図表2:2023年1-5月の中国主要製品の輸出前年同期比
車や船舶など、アメリカから制裁対象となっていない、やや線幅の大きな半導体でも製造できる製品は大きく伸びており、これまで主としてアメリカに輸出してきた家電や液晶モジュール、携帯電話などは落ち込んでいるのが分かる。車や船舶の輸出先は、もちろんロシア。車や船舶は高価格帯でもあるため、車など量的に80%も増加しただけでなく、金額的にも前年同期比107.9%も増加している。
また経済成長の伸びが芳しくないからといって、中国に貧困者が増えたのかと言ったらそうではなく、コロナの流行が又あるかもしれないし、アメリカからどのような制裁が出て来るかもわからないので、取り敢えず貯金しておこうという人たちが増えてきたのだということが、中国人民銀行のデータから見えてくる。それが二つ目に気になったデータで、それを図表3に示す。
図表3:2023年1-5月の中国人民元預金残高
人々は人民元を信じて、人民元での貯金がゼロコロナ以降増えていることを示している。年間を通じても、ここ数年増えてはいるが、議論が拡張するので省く。
もっとも失業率20%に関しては無視することも出来ないので、追って折を見て分析を試みたいと思っている。
いずれにせよ全体として言えるのは、習近平の行動哲理は【兵不血刃】で、短期的な経済下降などは気にせず、多極化という大きな地殻変動に向かって進んでいるということだ。だからこそアメリカ政府高官の北京詣でが続いており、アメリカ自身が困っているという自己矛盾を来たしていることに注目したい。
実はアメリカには、習近平のこの戦略は見えていると言っていいだろう。しかし黙っている。したがって習近平が自ら積極的に台湾を武力攻撃するなどとは、アメリカは実は考えていないことも窺(うかが)える。
なお、【兵不血刃】は拙著『習近平が狙う「米一極から多極化へ」 台湾有事を創り出すのはCIAだ!』の軸の一つで、7月26日に発売される月刊Hanada(2023年9月号)では<習近平の「兵不血刃」とNED>というタイトルで拙稿が掲載されている。