父はなぜ、息子の棺を蹴ったのか…「加害者」取り違えた警察の捜査ミスと30年間消えぬ飲酒事故遺族の遺恨
「人は、『時が経てば……』と言いますが、理不尽な事故で家族を奪われた遺族にその言葉は当てはまりません。私たちの、息子を思う気持ちと悲しみ、そして遺恨は、何年経っても全く減退などしないのです」
そう語るのは、三重県に住む椋樹立芳(むくじゅりゅうほう)さん、85歳です。
取材をきっかけに椋樹さんと出会ってから、ふと気づけば30年近い歳月が流れました。
私自身、亡くなった息子の裕之さん(当時26)と同い年ということもあったのでしょう。事故からの時の流れを、自分の人生に重ね合わせることがたびたびありました。
今年8月末、久しぶりに椋樹さんにお会いし、ゆっくりお話をする機会に恵まれました。
令和2年「秋の交通安全運動」が始まった今、二度とこのような悲惨な出来事が起こらないように、という思いを込めて、椋樹さんのお話を紹介したいと思います。
■30年たった今も消えない……、最後に見た息子の笑顔
1990年3月17日、椋樹さんの長男・裕之さんは、将来を約束した彼女を連れて実家を訪れていました。
久しぶりに家族がそろい、皆で賑やかな夕食を囲んだ後、彼女を送り届けてから職場の寮に戻ると言って裕之さんが家を出たのは、午後7時半頃のことでした。
椋樹さんは振り返ります。
「息子は翌日、成田警備の出張が入っており、午前2時には職場を出発する予定でした。私が『運転に気をつけろよ』と言うと、息子はいつもの笑顔で、『わかっとるよ』そう答えました。それが、この世で聴いた息子の最後の言葉になってしまったのです……」
警察から慌てた声で電話がかかってきたのはそれから約3時間後のことでした。
最初はよく聞き取れませんでしたが、椋樹さんの車のナンバーを確認したいというのです。
「『我が家の車に間違いありません』と告げると、突然、『その車に乗っている方が、追突して亡くなられました。すぐに警察署に来てください』そう言われたのです。それから15分ほどは空白の時間でした。私は妻と二人、無言で、ただ茫然と廊下に座り込んでいました。頭の中は真っ白で、何の意識もなかったような気がします」
警察署に向かう車の中では、なぜか涙ひとつ出ませんでした。
ただ、椋樹さんが奥さんと交わした会話は、ご迷惑をかけた方々にどう対応すべきか、ということだけでした。
■真っ黒に焦げた我が子との対面
「警察署に到着すると、まず遺体安置所に案内されました。しかし、係の人から『奥さんは見ないでください』と言われたため、確認は父親である私が一人ですることになりました。部屋に入ると、そこには、真っ黒に焦げ、変わり果てた息子の姿がありました。顔面と頭部は骸骨寸前、手の指は欠損、身に着けていた衣服も、胴体と足の皮膚も、完全に焼けていました」
その後、警察署の2階にある事務所に連れて行かれた椋樹さん夫妻は、交通課長からいきなり「あなたの息子はとんでもないことをしてくれた!」と怒鳴られました。
実は、裕之さんは現職の警察官でした。
赤信号で停止中の複数の車に警察官が猛スピードで追突し、6台の車を破損させ4人が負傷。さらに、本人は炎上した車内で死亡したとなれば、非番の事故とはいえ「警察の不祥事」です。
椋樹さん夫妻は、ただおろおろと謝罪するだけでした。
「警察署の駐車場で、移動されてきた息子の事故車をちらっと見ました。車は焼け焦げ、全長は3分の2ほどに圧縮されていました。ただ、息子が猛スピードで後ろから追突したという割には、直感的に車の前部の破損が少ないと思いましたが、そのときは頭が混乱していて、疑問を抱くことはありませんでした」
■警察官の不祥事として全国に報道されて
翌朝のテレビや新聞は、『警官が激突、炎上死』『猛速 警官が激突死 信号待ち6台に』といった見出しをつけ、事故を一斉に報じました。
中には、『裕之さんが前を見ていなかった上、スピードを出しすぎ、ハンドル操作を誤ったらしい」とも書かれていました。
「警察官の息子がこんな不祥事を起こしたことに対し、私はただただ世間に申し訳なく、我が子が亡くなったというのに、悲しむ余裕などありませんでした。逆に息子に対する怒りのあまり、棺を蹴りつけてしまったのです。その後は、時間の許す限り息子の上司や同僚などに電話をかけ、不祥事を詫びました。そして、多大な迷惑をおかけした被害者の方々に、ひたすら謝罪するばかりでした。ただ、葬儀の日、会場には警察から立派な花が多数届けられてずらりと並んでいたので、不思議な感じがしました」
ところが、何回電話をしても一人だけ連絡が取れない20歳の男性がいました。
ようやく彼に電話がつながったのは、葬送を終え家に帰ってからだったと言います。
「今思うと、そのときの対応は非常に不自然で、被害者のはずなのに被害者としての反応がなく、あいまいな返答でした。実は、その男こそが、この事故を引き起こした真の加害者だったのです」
■「息子さんは加害者ではなく、被害者でした……」警察が告げた意外な言葉
葬儀の翌日、椋樹さん夫妻は、自分が加入していた保険会社に事故の損害賠償の相談をしてから、警察に謝罪に出向きました。
すると、事故当日の態度とは打って変わって応接室に通され、副署長がこう口を開いたというのです。
「実は……、息子さんは加害者ではなく、被害者であることが判明しました。それは99%間違いありません。しかし、二度間違いがあってはいけませんし、警察官が加害者から被害者に変わったとなると、こういう事件には必ずクレームが付きますので、加害者を逮捕するまでは、この事実は口外しないでください」
しかし、椋樹さんはどうしても黙っているわけにはいきませんでした。
近所の人や裕之さんの知人らに電話をし、『実は息子は被害者でした』と連絡を入れたのです。
「もしそのままにしておいたら、息子はその間、卑劣な人間であったと世間に認識されたままになってしまうからです。これは後の裁判でわかったことですが、加害者は事故の直前まで居酒屋で酒を飲み、ふらついた足取りで車に乗り込み、ハンドルを握ろうとしました。そのため、友人が制止し、いったんキーを取り上げていたというのです」
しかし、それでも加害者は友人の制止を振り切り、自らスペアキーを取り出してハンドルを握り、無理やり車を発進させたのです。
事故現場の200メートル手前では、猛スピードで蛇行運転をする白い加害車両が、はっきり目撃されていました。
「当初は息子が追突したとされていました。が、実際には加害者の車が時速100キロ近いスピードで信号待ちをしていた車に次々と追突したのです。現場は片側二車線の交差点で、第1通行帯に5台、第2通行帯に3台のクルマが停車していました。加害車は第2通行帯の3台目だった息子の車にまず激突し、次々と他車に接触しながら、第1通行帯の1台目の車に追突してようやく止まったのです」
ガソリンタンクを完全に破壊された裕之さんの車は激しく炎上し、現場は大混乱でした。
現場検証に当たった警察は、加害者の車が裕之さんの車よりはるか前方で停止していたことで真の加害者を見誤り、一番後ろで180度回転し、燃えていた裕之さんの車を加害者として発表してしまったのです。
「息子は悪質な飲酒運転によって殺された被害者でした。それなのに、初動捜査の間違いのまま全国的に報道され、卑劣な暴走運転者の汚名を着せられたまま、一人で泣きながら出発していったのです。私は棺を蹴ったことを悔やんでも悔やみきれませんでした。本当に申し訳ないことをしたと……」
■「無罪主張」で長期裁判。獄中から届いた加害者の手紙との乖離
しかし、事件はここで終わりませんでした。
加害者側の弁護団が、裁判で無罪を主張したのです。
「被告側の弁護団は刑事裁判で『無実だ、冤罪だ、警察は仲間の名誉のために被告を不当に逮捕した』と主張しました。一審では懲役2年の実刑判決が下されましたが、被告側はそれを不服として控訴。加害者の知人たちからは、減刑の嘆願書まで出されたのです。結果的に高裁では、懲役2年の判決が確定しましたが、過剰な弁護活動のために、なんと6年間にわたり46回もの公判が開かれることになったのです。最後には、息子は先に前車に追突し、死んでいた可能性があるとまで主張してきたのですから驚きましたが、それが事実ではないことは、加害者が獄中からよこした手紙を見れば明らかでした」
以下は、加害者が刑務所から送ってきた椋樹さんへの謝罪の手紙です。
自身が飲酒運転をして重大事故を起こしたこと、そして、刑事裁判を長引かせたことに対する反省の弁も綴られていました。
「加害者自身も刑事裁判が長期化したことで20代の大半を棒に振ってしまいました。そもそもの発端は警察の捜査ミスだったかもしれません。しかし、この刑事裁判で被告側の弁護士がとった対応に対する私の怨みと怒りは、一生癒えることはありません。そして、私は加害者に問いたい。なぜ、事故直後に犯人は自分ですと素直に申し出なかったのか。これはひき逃げ事件と同じなのです」
懲役2年……、今では考えられないほど軽い刑罰です。
でも、30年前はまだ「危険運転致死傷罪」は成立しておらず、酒を飲み、泥酔運転で死亡事故を起こし、そして他者に責任を擦り付けて逃げても、これが妥当な判決だったのです。
椋樹さんは裕之さんが亡くなってから、飲酒運転の撲滅を訴え、地道な活動を黙々と続けてこられました。
どれだけ歳月が流れようとも、その闘いに終わりはありません。
「息子は被害者であったことが認められました。しかし、事故翌日の誤った大報道は簡単には消えません。今もまだ、息子が追突したと思い込んでいる人がいますし、中には『警察官だからうまくやってもらったんだろう』という目で見ている人がいるかもしれません。飲酒運転による事故は、通常の過失による事故とは区別すべきです。酒を飲んで危険な運転をするのは故意です。車は凶器にもなりえます。ドライバーの無責任な行為が、どれだけ多くの人の命を亡きものにするか、よく認識していただきたい。この事故で奪われたのは裕之一人の命ではないのです。これから生まれてきたであろう、子どもや孫、何十人、何百人という命を奪われたのと同じことなのです」
ハンドルを握ることの重さを、しっかりとかみしめたいと思います。
●椋樹立芳さんのHP 『天空の裕之へ父より』