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<ガンバ大阪・定期便104>倉田秋がJ1リーグ400試合出場を達成。どんな時も、ガンバのために。

高村美砂フリーランス・スポーツライター
アカデミー時代を含め、ガンバ在籍は22年目を数える。写真提供️/ガンバ大阪

 J1リーグ第24節・湘南ベルマーレ戦で、倉田秋がJ1リーグ400試合出場を達成した。30年を超えるJリーグの歴史においても、これまで31人しか到達できなかった偉業だ。

 もっとも、節目の一戦を前にしても「単なる数字。全く気にしてない」と話していた通り、試合後も自身の記録は「どうでもいい」とバッサリ。それよりも、11試合ぶりに先発のピッチを任されながら、チームを勝たせられなかったことに悔しさを滲ませた。

「個人的には、久しぶりの先発で結果を出したいと思っていたし、今のチーム内での競争を考えても、(結果を)出さないと次はないと思って臨みました。それだけに自分が出て勝たせられなかったのは悔しいけど、これも自分の責任だと思っています。チームとしても、準備していたものが前半はなかなかハマらなかった。自分たちの強度も足りなかったし、相手のボール回しのクオリティにも上回られた。それでもこれまで通り、最後のところはしっかり守り切れていたので、後半は、もう一回前からしっかり圧力をかけられるところはかけていこうと言っていました。ただやっていることは間違いないと思っているので。これでバラバラになるチームじゃないし、試合後のロッカールームでも貴史(宇佐美)がそういう話をみんなの前でしてくれた。もう一回、中断明けからいいスタートを切れるように、また切り替えてやりたいです」

 普段から「出場時間に関係なく、自分のパフォーマンスがチームの結果に繋がらないと意味がない」と繰り返してきた倉田らしい言葉。だからこそ、それを体現できなかった自分に厳しい目を向けた。

■2年間の期限付き移籍を経て、ガンバ復帰。「ここで自分を示せなければ二度とガンバのユニフォームは着られない」。

 ガンバアカデミー出身。高い技術力を従え、07年にトップチームに昇格した。当時のポジションはボランチ。ドリブルでの仕掛けやスルーパスだけではなく、得点能力にも定評があり、即戦力として期待された。J1リーグデビューは同年8月のJ1リーグ第19節・アルビレックス新潟戦。83分から明神智和に代わってピッチに立つ。3点のリードを奪っていた状況下、落ち着き払ったプレーぶりが印象に残っている。

「サッカーでは緊張したことがほぼないので。今日も特に緊張しませんでした。リードしていたし、落ち着いてプレーできました」

J1リーグデビューはプロ1年目、万博記念競技場でのアルビレックス新潟戦。ボランチでの出場だった。写真提供️/ガンバ大阪
J1リーグデビューはプロ1年目、万博記念競技場でのアルビレックス新潟戦。ボランチでの出場だった。写真提供️/ガンバ大阪

 当時のガンバは、05年のJリーグ初優勝を機に、強豪クラブとしての地位を確立していた時代。同じポジションには、遠藤保仁をはじめ、明神、橋本英郎ら、日本を代表するボランチが揃っていたものの気後れする様子は一切なく、話を聞くたびに「試合に出たい」「試合に出なきゃ面白くない」と繰り返していたのも懐かしい。

 もっとも、そこからの3年間は思うように試合に絡めず、倉田は10年、J2リーグのジェフ千葉への期限付き移籍を決断する。ステージを下げることや慣れ親しんだ青黒のユニフォームを脱ぐことに迷いはなく、まずは自分のプレースタイルを取り戻し、公式戦のピッチで輝くことが先決だと考えた。

「何かを変えなあかん。このままだとサッカー人生が終わってしまう」

 そしてその千葉で過ごした1年間は倉田の大きな転機になる。リーグ開幕戦で移籍後初ゴールを刻めたことも自信になった。

「ガンバでの最初の3年間はボランチでプレーすることが多かったけど、千葉でサイドハーフに据えられたことでユース時代に身につけたドリブルの感覚を取り戻せた。何より気持ちの部分でがんじがらめになっていた息苦しさから解放された。久しぶりにサッカーをしているという実感が持てて、めっちゃ楽しかった」

 結果的にこの年、彼はJ2リーグ29試合に出場し8得点。走る力を備えながらチームで2番目に多いゴールを刻むと、翌年は再び期限付き移籍でJ1リーグのセレッソ大阪に戦いの場を移す。

「まさか自分がセレッソのユニフォームを着ることになるとは思ってもみなかったけど、今はとにかく結果を残しながら自分を成長させることが先決だと思いました」

 その中で、前年度から1つ上がったステージでも再び開幕戦で移籍後初ゴールを奪った倉田は、以降も清武弘嗣(現サガン鳥栖)、乾貴士(現清水エスパルス)ら、名だたる攻撃陣との競争を力にしながら結果を残し続け、33試合10得点と、チーム最多タイの数字で存在感を際立たせる。ガンバに復帰したのはその翌年、12年だ。

「11年のAFCチャンピオンズリーグでガンバと対戦した時に、めちゃめちゃ強かったんです。以前、ガンバに在籍していた時は紅白戦をしていても『俺も試合に出れば通用する』って思っていたのに、いざ公式戦で向き合ったガンバは別物で、パス回しも安定していたし、90分を通してチームが全く崩れない感じもした。振り回されて、時計の針が進むにつれて自分がどんどん消耗されていったのも覚えています。だからこそ、自分がその競争に割っていけるのかを含めて、このタイミングで復帰すべきか相当悩みました。でも、以前のガンバでの3年間があまりに悔しすぎたし、期限付き移籍中もずっとその思いが心の奥底にあったので。それを払拭するためにもガンバに戻って、ガンバで結果を残すしかないと思いました。ここで自分を示せなければ二度とガンバのユニフォームは着られないという覚悟もありました」

 決意を数字で示すかのごとく、倉田はその復帰イヤーに31試合7得点と気を吐く。残念ながらこの年、ガンバはJ1リーグ最多得点を記録しながらJ2に降格するという屈辱を味わったが、彼がピッチで魅せたパフォーマンスは紛れもなく成長を示すものだった。

ガンバに復帰した12年は千葉時代と同じ背番号14。コンスタントにピッチに立ち、成長をアピールした。写真提供️/ガンバ大阪
ガンバに復帰した12年は千葉時代と同じ背番号14。コンスタントにピッチに立ち、成長をアピールした。写真提供️/ガンバ大阪

■志願して手に入れた『10』。キャリアを積み上げる中で備わった、主軸としての自覚。

 キャリアを重ねるごとにガンバでの存在感を大きくしていった倉田が『10』を志願したのは17年だ。16年夏に、同じ高槻市出身のアカデミーの先輩で、長くこの番号を背負ってきた二川孝広がチームを離れた中で、自分にプレッシャーをかける。その責任と喜びは自身に流れる青黒の血に強く訴えかけた。

「自分から背負いたいと志願しておきながら、フタさん(二川)がガンバで残してきた結果を考えたら、めちゃめちゃ重いです。でも一方で、小学校のときに初めてつけてからずっと憧れていた番号なので。洗濯物のカゴとかに『倉田10』と書かれているだけでめちゃめちゃテンションが上がって、嬉しかったりもします (笑)。とはいえ、つけて終わりではないので。この先もずっと、背負い続けていくためにはそれに相応しい結果がいる。ちょっとやそっとの活躍では、フタさんが植え付けたガンバの『10』の記憶を塗り替えられない。『10番・倉田秋』として認めてもらえるようにしっかり活躍して、ガンバを勝たせられる選手になっていきたいです」

 当時、28歳。すでにチームの主軸選手の一人だと見られていたとはいえ、その頃はまだ倉田より年齢が上の選手も数多く在籍していたからだろう。どちらかというと、自身のプレーに目を向けることが多かった気もするが、30代に突入する前後から、そのマインドに変化を感じることが増える。年長選手が一人、二人といなくなり、また金正也、米倉恒貴(千葉)、長沢駿(大分トリニータ)、藤春廣輝(FC琉球)ら、同期で仲の良かったメンバーもチームを離れていく中で、期する思いもあったのかもしれない。

 特に20年夏に長きにわたってガンバの象徴だった、遠藤がガンバを離れて以降は、以前からの優しくて仲間想いの素顔により『ガンバを強くするため』のリーダーとしての責任や風格が備わるようになった印象もある。特に、それはチームが苦しい状況に追いやられた時ほど際立った。

 事実、自身がキャプテンを務めた22年も、昨年も、2年連続、残留争いに巻き込まれてしまったチーム状況下、何度、チームメイトから彼の名前を聞いたかわからない。

「どんな時も一番頑張って、誰よりも周りに声をかけてくれているのが秋くん」

「秋くんが(練習を)全くサボらないのに、僕らがサボるわけにはいかない」

 本人は「深く考えてない。自分がやりたいようにやっているだけ」だと涼しい顔だったが、どんな時もガンバのために献身的に戦い続ける彼の姿が、壊れそうになるチームを何度もギリギリのところで踏みとどまらせたのは紛れもない事実だ。

『10』を背負うにあたっては二川孝広に連絡し、了承を得たと聞く。「ガンバを勝たせられる選手に」と心に誓った。写真提供️/ガンバ大阪
『10』を背負うにあたっては二川孝広に連絡し、了承を得たと聞く。「ガンバを勝たせられる選手に」と心に誓った。写真提供️/ガンバ大阪

■どんな時も、ガンバが勝つために走り、戦う。『プライド』を胸に。

 その姿は、今シーズンも変わっていない。キャプテンという肩書きはなくなっても、先発であろうとメンバー外であろうと、彼は同じ温度で自分のサッカーと向き合い、ガンバの勝利のための戦いを続けている。

 今年6月上旬、山下諒也に取材した際も、倉田の名前を口にしていたのを思い出す。山下は先発出場を、倉田は途中出場を続けていた時期の話だ。

「もちろん、こうして先発で出してもらっている中では、自分がポジションを死守してやるという気持ちは常に持っています。でも、仮に先発を外れても…変な言い方ですけど、僕、このチームに来てから、本当にガンバが勝てば嬉しいって気持ちになるんです。みんなと過ごす時間が長くなるにつれ、どんな形でもいいから貢献したい、みんなを助けたいって気持ちにさせられる。川崎フロンターレ戦(第15節)で秋くん(倉田)が決めた3点目のシーンも…もちろん、いい位置に秋くんがいたから(パスを)出したんだけど、普段から秋くんが努力している姿とか、スタメンでも、そうじゃなくてもずっと頑張っている姿を知っていますからね。秋くんにはいつもポジティブな声を掛けてもらっていたし、試合の次の日も朝早くにクラブハウスに来て筋トレをしたり、自分のために注いで過ごしている姿を見ていたから、(パスを)出したくなっちゃう。このチームの先輩方は、秋くんに限らず、みんなそういう背中を見せてくれるから、自然と自分のエゴよりチームの勝利を優先しようという気持ちになるんだと思います(山下)」

 後日、そのままの言葉を伝えると、嬉しそうに「あれは、ほんまに諒也が、よく出してくれた。僕の出せ出せ、って念が届いたのかも(笑)」とリーグ戦初ゴールを振り返っていた倉田。その上で「チームのために、自分にできることをやるだけ」だと続けた。

「みんながそうであるように、僕も常にスタメンで出たいと思っているし、そのために全力で準備をしています。でも、もはや出場時間は気にしていません。それはダニ(ポヤトス監督)が決めることですしね。チームってそれぞれに役割があって、全員が全うして初めて結果が出せるからこそ、僕はその一員として、本気で日々の1分、1秒が勝負やと思って向き合い続けるだけやと思っています。僕に限らず、今年のガンバはお互いの頑張りが危機感にも繋がって、みんなが『チームのために与えられた役割を全力でやる』ってことに気持ちを注げている。だから上位で争えているんやと思う。もっとも、人間やから、たまに気持ちが揺れることもあるはずなので。僕も若い時はそんなこと、何回もありましたしね。だから、ちょっと晴れない顔をしている選手がいたら、一緒に頑張ろうや、くらいの声はかけています。といっても、今年は貴史(宇佐美)やシン(中谷進之介)、純(一森)らが引っ張ってくれているし、若い選手もみんな前向きに頑張っているので大して僕の仕事はないけど(笑)。むしろ、すごくいいチームになってきたからこそ、僕も置いていかれないようにせなアカンって思っています」

 「頑張れ」ではなく「一緒に頑張ろうや」も倉田らしさ。常に一歩引いたところからチーム全体を見渡し、時に温かく、時に厳しい言葉で寄り添いながら、仲間の背中を押す。そして自身はといえば、誰よりもガムシャラにボールを追いかけ、誰よりも熱くサッカーと向き合う。

「この年齢やからちょっとは加減してやらないと、ケガのリスクが…って思って調整しようとした時期もあったけど、無理でした(笑)。毎日を『もうこれ以上は無理。やり切った』という状態で終えないと、家に帰ってもソワソワして落ち着かない。だから練習も、自主トレも毎日100%。これしか自分を納得させられる方法がない!」

 ガンバのために、自分のために。積み上げた『400試合』の経験があればこそ、だ。

「三冠を獲ったシーズンも、シーズンの前半戦はぜんぜん勝てなかったし、なんならずっと下位に低迷していたけど、みんなでブレずに戦い続けたから後半戦の結果があり、タイトルがあった。特に印象に残っているのは、途中から出てくるメンバーが常にチームを勢いづけてくれたこと。リンスとか、佐藤(晃大)くんらが、大事な試合で点を取ったり、活躍してくれたおかげで『三冠』にも辿り着いた。僕も今年はどちらかというと途中出場の方が多いですけど、だからこそ、あの時の佐藤くんらの貢献がどれほど難しくて、どれほど大きかったのかも痛いほどわかるので。そのことを僕なりにチームに伝えていければと思っていますし、そのためにもまずは僕自身が、与えられた時間の中でチームのための仕事をしたいと思います」

 その言葉にもある通り、今シーズンの彼は、冒頭に書いた湘南戦こそ先発のピッチを任されたものの、出場したJ1リーグ18試合のうち13試合が途中出場となっている。それでもJリーグ開幕に先駆けて行われたプレシーズンマッチでは82分から出場して勝ち越しゴールを奪い、ホーム開幕戦では62分から出場してPKのチャンスを手繰り寄せた。記憶に新しい第23節・サガン鳥栖戦も64分からピッチに立つ中で攻撃のギアを上げる役割を担い、84分には鈴木徳真が球際のバトルで粘ったボールを拾いイッサム・ジェバリのゴールをお膳立てしている。そのパスの精度もさることながら、ペナルティエリア内への猛ダッシュでのスプリントも迫力満点だった。

 そんな彼の背中が年々大きく見えるのは、日々欠かさない筋トレの成果…だけでは決してない。悔しい経験も、嬉しい記憶も全てを肥やしにしながら、でも、決して現状に満足することなく、常に進化を求めて戦い続けてきたから。生え抜き選手として、青黒のユニフォームを纏う責任を真っ向から受け止め、力に変えてきたから。そして、18年もの年月をかけて積み上げた『400試合』もの数字を「どうでもいい」と吐き捨てたように、どんな時も自身の結果とガンバの勝利をイコールで考えてきたから。

 今年の初め、彼の中に流れる『プライド』について尋ねた時の言葉が蘇る。

「僕にとってのプライドとは、自分がナンバーワンだと思ってプレーすること。これは一番結果を出せるという意味ではなく、自分が一番、ガンバを勝たせるために戦える選手、という意味。自然に育まれてきたそのプライドが自分の中からなくなった時が引退する時だと思っています」

 今のところ、そのプライドが揺らぐ様子は微塵も感じられない。いや、むしろ年々、熱く激らせているから、倉田秋はガンバの10番であり続けている。

『10』をつけて8シーズン目。その背番号は彼の代名詞として定着している。写真提供️/ガンバ大阪
『10』をつけて8シーズン目。その背番号は彼の代名詞として定着している。写真提供️/ガンバ大阪

フリーランス・スポーツライター

雑誌社勤務を経て、98年よりフリーライターに。現在は、関西サッカー界を中心に活動する。ガンバ大阪やヴィッセル神戸の取材がメイン。著書『ガンバ大阪30年のものがたり』。

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