「なりたい自分」の諦め方 きちんと絶望するから希望が生まれる
■私のキャリアは「諦め」のキャリア
今回は、恥をさらす覚悟で、自分のキャリアを例にお話をしてみます。今でこそ、なんとなく人事のプロだというようなことを言われ、ときには図々しくも自分たちで言っていることもありますが、実は「なりたかったものを諦めてきた人生」でした。
人事の道をずっと目指してきたように思われるかもしれませんが、まったくそうではありません。いろいろなりたいものがあったのですが、それらをすべて諦めて、自分にはここにしか生きる道がないと覚悟して、結局今のような仕事にたどり着きました。
もちろん、現在では自分のキャリアに満足しており、これからもここをスタートにいろいろやりたいことが生まれてきているのですが、これは結果論です。ただ、私が自信を持って言えるのは、「きちんと諦めたから、迷いがなくなって今に邁進できている」ということです。
■子どものころは詩人になりたかった
記憶のある範囲で、私が最初になりたかった職業は詩人です。もうちょっと言うと、現実的に詩人で食べているのは谷川俊太郎さんぐらいしかいないでしょうから(言い過ぎですかね)、阿久悠さんや松本隆さんのような職業作詞家に憧れていました。
今でも実家の押入れの段ボールには、中学生ぐらいの時に書きためた詩集があるはずです。死んだら、すぐ焼却処分して欲しいです。いろいろ書いてみたり、投稿したりしてみたのですが、結局誰からも見出されず、今に至ります。
その次にやってみたいと思ったのは医者。祖母が病気がちで何とかしてあげたいというありがちな理由ですが、これも数学は好きだったものの物理や化学、生物に興味が持てず挫折。
では、文系トップの職業を、と司法の道を考えたのですが、あの法律の文面がダメだったのと、単に高校からは勉強すること自体が嫌になってきたので、六法全書を記憶するなんて無理と止めました。まあ、すべて止めたというより、できなかったといった方がよいでしょう。
そうして教育学部に入り、心理学を学んだのですが、次は学者に憧れました。しかし、学者の緻密な論理性や、ファクトでしかものを言ってはいけない窮屈さ(大事ですが)を見て、教えることは好きだけれども研究が無理だと思い、結局、院に行くつもりで就活もしていなかったので、留年してふつうに民間就職をすることになりました。
■働きながら悪魔の囁きに追われる日々
よくある話で、めでたしめでたし、となるかと思われるかもしれませんが、そうはいきませんでした。私が諦めてきたと思っていたものは、ほとんど全て成仏することなく、まだ自分の中に悪霊のように残っていたのです。
詩人の霊、医者の霊、弁護士の霊、学者の霊・・・。若い頃はそういうものに取り憑かれたまま、日々の仕事をこなしていたように思います。潜んでいる悪霊は、現実世界で大変なことがあると、そこからの逃げ場として悪魔の囁きを私にしてきます。
「お前はこんなところにいてもいいのか」 「あの夢を思い出せ、まだまだチャンスはあるはずだぞ」
そんな言葉が心の中に響くと、現実世界が色あせてくるのがわかります。日常というものは落ち着いていることが心の安定には良いわけですが、それが退屈なことという解釈に変わります。
こんなことをしていてはいけない、と気もそぞろになると、仕事がおろそかになり、パフォーマンスも下がります。それが悪循環を生むと、現実に踏みとどまって頑張るのではなく、
「やっぱり自分の居場所はここではない。成果も出ないし、自分に合った仕事とは思えない。ここにいるのは間違っている」
と、そこから脱出を図ろうという気持ちになっていきます。そして、その気持ちが一定の閾値を超えてしまうと、実際に退職等々の行為に移してしまうのです。
■大学院に受かったのに入学をやめて出戻り
その後の私は、もう無茶苦茶です。最初の会社は4年で辞めてしまい、警察で非行少年の心理判定員の仕事をしながら大学院受験をし直しました。
ところが現実に合格してみると、結局、最初に学者の道を諦めた理由と同じなのですが、その後の研究者としての長い訓練での苦労を思い、結局入学をやめました。その後、幸運にも再び最初の会社に入り直すことができたにもかかわらず、いろいろな悪霊に苛まれました。
例えば、私は司法試験の勉強を結構な期間、密かに独学でしていました。憲法や民法、刑法などの分厚い教科書を3回程度は勉強して、まとめたノートは何冊にもなりました。そこまでやって、なんとなく法律というものの正体というか本質というかがわかり、自分には不適であると改めて感じ、これまた司法の道に進むという気持ちは消えていきました。
医者もそうです。とある大学の医学部の編入試験が文系学部出身者でも受けられることを知り、応募したこともあります。昔の上司に推薦状まで書いてもらって書類を提出したのですが、あえなく書類選考で落ちました。
しかし、そこまで一応トライしたことで、自分の心の中から、悪霊たちがスーッと消えていったのです。それからの自分は、もう医者とか弁護士とか学者とかに対して、何も思わなくなり、人事マンとしての自分に覚悟ができたように思います。
■諦めに必要だった「悲しみの5段階」
昔の人は偉いです。「喪に服す」とは合理的な行為で、自分の大切な存在がいなくなってしまったことに対して、きちんと自分を整理することで、前に向かって歩き出す希望を得ることができるわけです。
もっと言えば、絶望を味わい尽くすことによって、もうそれ以上、うじうじと後ろばかり見ていることから離れて、「もう仕方がない。前を向いて生きるしかない」と現状を受容するしかなくなります。
このことを理論化したのが、エリザベス・キューブラー=ロスという米国の精神科医です。終末期医療のホスピスの嚆矢となる仕事をした方で、人はいかに自分が死んでいくことを受容していくのかを研究し、その段階は「悲しみの5段階」とか「キューブラー=ロスモデル」などと呼ばれています。
それによれば、自分が死ぬことなどの認めがたい出来事に直面した人は、まず「否認」、つまり「そんなことは嘘だ。間違いに違いない」と考える。ところがどうも事実であることがわかると、次に「怒り」、つまり「なぜ、そんなことが起こったのか、なぜ自分なのか」という感情が芽生える。
さらに、怒っても何も変わらないことを悟ると「取引」をしようとする。「なんとかこの状況を変えることはできないのか」と試みる。ところが、それもダメとなると「絶望」、つまり「もうすべての希望は失われた」と抑うつ状態になってしまう。
しかし、ここまで来ることで、その後がある。絶望しきることで、時間が経てば「もう起こったことは仕方がない。こうしていても何も起こらないから、今できることをしよう。前を向いて歩いていこう」と、希望とも受容とも言えるような状態が訪れる。彼女はそう主張します。絶望するから、希望が生まれるということでしょうか。
■徹底的に夢を諦め、天職を探してみては
自らの死を受容するプロセスと、なりたかったものになることを諦めることは、同じとは言いませんが、極めて共通する要素が多いのではないかと私は思います。
前述のような私の悪あがき、学者や弁護士や医者になれもしないのになろうとするのは、キューブラー=ロスのプロセスで言えば、「取引」をしていたのかもしれません。
しかし、その「取引」をすることを通じて、それ以前に感じていたような「俺だって別に本気出せば、医者とか弁護士とか学者ぐらいにはなれるぜ」的な情けない思いは、すべて消えていきました。ちゃんと勉強したりしてみて、「ああ、やっぱり僕は徹底的にこの仕事には向いていないんだな。才能がないと本当に理解した」と、ある意味絶望したわけです。
その絶望は清々しいものでした。それからの私は憑き物が取れたように、人事の仕事に邁進し、人事の仕事に誇りを持ち、天職だと感じるまでに至りました。
私の今のキャリアが成功なのかどうかはわかりませんが、少なくとも自分では納得し満足しています。ネガティブに聞こえるかもしれないのですが、皆様、特に若い読者の皆様には、ぜひ徹底的に夢を諦めて、本来の自分の天職を探してみてはどうかとお勧めしたいです。
中途半端に諦めてはいけません。僕にはもう絶対無理だと確信するまで諦めてください。人は皆、何かの天才だと私は信じています。夢を「きちんと諦める」ことで、ようやく自分が天才である「何か」に近づくことができるのではないでしょうか。ちなみに、詩人の霊には、私はまだ取り憑かれているのですが・・・。
※キャリコネニュースにて人と組織に関する連載をしています。こちらも是非ご覧ください。