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なぜ本田圭佑に「3」を譲らなかったのか。駒野友一が明かす南アW杯と日本代表の裏話

元川悦子スポーツジャーナリスト
南アW杯で全試合フル出場した駒野友一(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

足掛け10年間。紆余曲折の代表キャリア

 10年前の2010年南アフリカワールドカップ(W杯)・パラグアイ戦(プレトリア)のPK失敗で、駒野友一(FC今治)は「戦犯扱い」を受けた。そこに至るまでも、至った後も、足掛け10年にわたる彼の代表キャリアは紆余曲折の連続だった。

 24歳でW杯初出場した2006年ドイツ大会は負傷した加地亮の代役として初戦・オーストラリア戦(カイザースラウテルン)に先発に抜擢された。が、ラスト6分間に3失点を食らう屈辱を味わった。しかも3失点目は駒野がジョン・アロイージにぶち抜かれ、決められたもの。初めての大舞台で絶望の淵に突き落とされることになった。

 その後、イビチャ・オシム監督体制の代表で初めてレギュラーに定着。ポジションは本職ではない左サイドバックだったが、信じて使ってくれた老将の期待に応えるべく、彼は持ち前の献身性を押し出し続けた。ところが、2007年11月にオシム監督が病に倒れ、岡田武史監督(FC今治)が後を引き継ぐと、内田篤人(鹿島)と長友佑都(ガラタサライ)の2人が台頭。駒野は「両サイドバックの控え」という不本意な立場に置かれた。それでも「いつかチャンスが来る」と前を向いたが、2010年5月の壮行試合・韓国戦で指揮官がケガの内田に代わって抜擢したのは今野泰幸(磐田)。これには辛抱強さがウリの駒野もさすがにショックを受けたという。

心が折れた南ア開幕前

――日韓戦の岡田さんは右に長友、左に今野という変則的な選手起用をしましたね。

「それは覚えてないです。でも次のイングランド戦(グラーツ)で今ちゃんが右、長友が左というのはよく覚えてます。いずれにしても、心が折れましたね……」

――自分の序列の低さを突きつけられたうえ、チーム状態も最悪でしたからね。

「それでも何かを変えるってわけじゃなくて、つねにコンディションをいい状態で保つことが大事だと。そこだけは崩さずにやっていこうと思ってました。『どこかでチャンスがある』とも信じてました。気持ちが折れてしまうとプレーに出てしまうから、そこだけは切らさずにやろうと心掛けましたね」

――親友の松井大輔(横浜FC)選手もケガからのスタートでしたけど、2人で励まし合ったりしたんですか?

「いや、松井に愚痴を言うわけじゃないので。向こうが自分をいじって、それでバランスが取れてます(笑)」

――イングランド戦直前にザースフェーで選手ミーティングがあって、守備的な戦い方にシフトすることが決まりましたね。

「(田中マルクス)闘莉王が『俺たちは弱い』と言い出して、その言葉がすごく重かった。みんなに響いた言葉だったので、ブレずにやっていこうという雰囲気になりました。1人1人が意見を言う形だったけど、自分には特に振られなかったですね(苦笑)」

――キャプテンも年下の長谷部(誠=フランクフルト)選手に代わりました。

「岡田さんが代えた時は『このタイミングか』とビックリしました。W杯というあれだけの短期決戦に挑むのに、今まで経験してきたベテランではなくて若い選手を選んだことにいろんな考えがあったんでしょう。ハセ自身はキャプテンシーがあったし、若い選手の中だったらハセだろうとは思ってました」

――最年長の川口能活(日本サッカー協会アスリート委員長)、それまでのキャプテン・中澤佑二(解説者)など年長者が多い中、彼が気を使っている姿が印象的でしたよね。

「上の選手の雰囲気を見ながら、選手だけのミーティングを開いて、自分の意見を言う時もあったし、いいところをまとめる感じでした。ハセは真面目を貫く方。それもよかったのかなと。さすがは岡田さんです」

懐かしそうに10年前を述懐する駒野(写真提供:FC今治)
懐かしそうに10年前を述懐する駒野(写真提供:FC今治)

 チームが揺れ動く中、控えの駒野にもついにチャンスが巡ってくる。本番前最後のテストマッチ・コートジボワール戦(シオン)で今野が負傷交代し、右サイドバックを託されることになったからだ。南アのベースキャンプ地・ジョージに赴き、残された準備期間は約1週間。そんな中、岡田監督はアンカーを置いた4-3-3への布陣変更と本田の1トップ起用を決断する。ジンバブエとの練習試合を1つこなしただけで、本番に突入するとはギャンブル以外の何者でもなかった。

「ああ、入る」と直感したカメルーン戦の先制弾

――本田(圭佑=ボタフォゴ)選手の1トップを後ろからどう見てました?

「最初に最前線に立ってるのを見た時点では違和感がありましたけど、やってみるとキープもできるし、すぐに馴染んだんで、『これはイケるかも』と思いました。岡田さんにそういうアイデアがあったこと自体、すごかったですね」

――松井選手ともタテ関係を組みました。

「同世代なのにそれまで一度もタテ関係はなかった。松井はどちらかというと攻撃に行って守備をサボる方(苦笑)。ディフェンスの仕方も分からない部分があったので、話しながらやりました。まあ『コマちゃん、頼むよ』みたいな感じだったのかな(笑)」

――そのキーマン2人から、チームの流れを劇的に変えるカメルーン戦(ブルームフォンテーヌ)の先制点が生まれました。

「後ろから見てましたけど、松井が切り返した時に『なんか点が入りそう』っていう空気感が漂いました。ぼくの頭にもゴールシーンが浮かんで『ああ、入る』と。圭佑をFWにしたからこそ、あそこにポジションを取っていたし、あの采配は岡田さんしかできないんじゃないですかね」

――その理由を岡田監督に聞いたことは?

「いやー、ないですね(苦笑)」

――カメルーン戦の終盤には、ドイツW杯のオーストラリア戦のことがよぎりませんでしたか?

「とにかくチーム全体で『耐える時間だ』『全員で守り切るんだ』と思ってました。(ドイツのことがあって)初戦の1勝の重要性はぼくもよく分かっていた。試合に入る前から絶対に勝たなきゃいけないと考えていたので、守り切れたのは大きかったですね」

 初戦の勝ち点3で勢いに乗った日本。第2戦・オランダ戦(ダーバン)を0-1で落としたものの、第3戦・デンマーク戦(ルステンブルク)を3-1で撃破。戦前の予想を覆してグループ2位通過を果たした。その結果を見れば理想的な展開に映るが、オランダ戦直前に今野をヴェスレイ・スナイデルの密着マーク役に抜擢する秘策が外に漏れ、デンマーク戦は序盤にチームが混乱するなど、全てが順風満帆だったわけではなかった。

南アのチームの一体感は物凄く強かった

――オランダ戦は駒野選手側からのクロスを起点にスナイデルの一撃を食らいました。

「あれはスーパーシュートだったので、そこまで落ち込まなかった。クロスを上げられること自体は嫌だし、決められて負けたことも悔しいですけど、グループで一番強かったのがオランダなのは確か。次がすぐに来るし、切り替えるだけでした」

――デンマーク戦は2ボランチにして挑んだ立ち上がりに次々と決定機を作られました。

「相手のフォーメーションに合わせたんですよね。1・2戦目をアベちゃん(阿部勇樹=浦和)のワンボランチでやって、ある程度うまくいっていたのに、あの試合はハマらなかった。そこでヤットさん(遠藤保仁=G大阪)たち中盤の選手がやりやすい形で戦いたいと監督に言ったんです。そういう行動に自信が表れていたと思いました」

――駒野選手も遠藤選手のように自分の意見を監督に伝えることの重要性を感じる?

「感じますね。ピッチ上で違和感を覚えたり、やられてしまうなら、変えた方がいいと。監督のやり方はあっても、相手も研究して強いところを消しに来たりするし、自分たちの弱点も戦いながら見えてくることがある。それはグラウンドの中にいる自分たちしか分からない。そう思って、今治に来た去年くらいからはかなり自分から監督に言うようになりました」

――南アの日本代表は「主張できる集団」でしたね。

「海外でやってる選手も複数いましたからね。負けが込んでくると1人1人の気持ちが離れていきがちだけど、そんな時でも『チームのために』って考える選手が多かったのは事実。一体感はものすごく強かったと思います」

代表経験を6月27日再開のJ3開幕にぶつける駒野(著者撮影)
代表経験を6月27日再開のJ3開幕にぶつける駒野(著者撮影)

 類まれなる結束力でベスト16入りした日本。しかし、パラグアイにPK戦で破れ、志半ばにして南アの地を去ることになった。駒野自身も悔しさを胸に秘め、次の4年間を走り続けた。が、2014年ブラジルW杯まで1年というところで、アルベルト・ザッケローニ監督から呼ばれなくなり、3度目の大舞台に立つことは叶わなかった。

――「負けない戦い」を選択したパラグアイ戦を本田選手は「日本人とパラグアイ人以外は見ない試合」と表現しました。その後、彼らは「自分たちのサッカー」を強く追い求め始めたわけですけど、駒野選手は南ア大会の戦い方をどう見ていますか?

「南アの時は1次リーグも守備重視の戦いで勝ってきたから、決勝トーナメントに入っていきなり攻撃的になるのは難しかったかもしれない。ぼく自身も失点をしないことが第一だったけど、やるからには攻撃的なサッカーをしたいし、そっちの方が面白い。そんな気持ちもあって、パラグアイに負けた時、『もう1回同じ舞台に立ちたい』と。次の4年間はそれを目標にやりました」

――でもブラジルW杯には行けなかった……。

「2013年の東アジア選手権(韓国)は出ていたのに、急にメンバーに入らなくなったのは自分でも不思議に感じます。勢いをつけたいって意味では若い世代を呼ぶ価値もあっただろうし、監督にとって考えは違うので、受け入れるしかない。ただ、悔しいですね」

――2018年ロシアW杯まで主軸を担い続けた本田世代は何が違ったのかな?

「海外で試合に出続けていたし、個人個人の能力の高い選手が揃っていました」

――それでも背番号3は本田選手に譲らなかった。

「アハハハ(笑)。代表の3番はドイツからずっとつけてたので、自分の中で定着していたし。Jリーグでは5番をつけてたけど、代表では長友だったんで、3番はどうしても手放したくなかったですね」

8強超えのカギはズバリ、決定力

――ブラジルW杯はどんな気持ちで見ていた?

「日本人として勝ち上がってほしい気持ちと、1年前まではいたメンバーに自分がいない悔しさの半々かな。予選の試合に出てなくて外れるなら分かるけど、何試合も出てましたから、やっぱり悔しかったですね」

――ロシアW杯のベスト16入りは?

「ロシアは南アに似てますよね。負けて負けてそこでチームがバラバラになるんじゃなくて、1つになったことで、ああやって勝ち進むことができたのかなと。日本は1人1人で戦うんじゃなくて、みんなでカバーし合って戦うという一体感がすごく大事なんだと。僕自身も年々『チームのために』という思いが強くなってます。どうすればもっとよくなるのかを考え、自分がみんなを動かすような仕事を意識するようになりましたね」

――日本はどうしたら8強の壁を超えられると思います?

「壁ですか……。決定力じゃないですか。上へ行けば行くほどそうなってきます。欧州リーグで得点ランク上位に入る選手が出てくれば超えられるんじゃないかなと思います」

 後輩たちにエールを送った駒野は6月27日のJ3開幕に向け、目下、臨戦態勢に突入しつつある。家族を静岡に残し、単身で四国の地に赴いている彼はスペイン人のリュイス・プラナグマ・ラモス監督が求めるポゼッションサッカーに適応すべく懸命に取り組んでいる。まもなく39歳になるが、「まだまだ現役を続けたい」という思いは人一倍強い。「パパと同じチームでプレーしたい」と言う息子と同じピッチに立つ夢を叶えるまで、忍耐の男は地道にコツコツと努力を続けていく。

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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