政策金利のピークは9%、1973年と1980年に付けたが、オイルショックとロクイチ国債の暴落が絡む
1971年8月に、当時のニクソン米国大統領は、米国の国際収支の赤字を削減してドルの流出を防ぐ目的により、外国の通貨当局に対してドルと金との交換停止を通告した。これによって戦後続いてきたドルを基軸通貨とする固定相場制は終了し、変動相場制に移行した。
欧州各国は変動相場制の対応に追われるなか、日本だけは輸出企業を守るために、円レートを守ることを最優先課題とした。円の切り上げが不可避となっても、それを最小限に抑え込もうと必死の対応をし、大量の国債発行による内需拡大策と極端な金融緩和が実施された。
1972年7月に田中角栄が総理大臣に就任。田中首相は「工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速道路の建設、情報通信網のネットワークの形成」などを謳いあげ、日本列島改造論を提唱した。加えて積極的な財政金融政策を提唱し、国債発行額は増加した。
この年に組まれた当初予算は空前の大型予算となる。また「福祉元年」と言われ、年金や健康保険給付の画期的な拡充も図られ、財政・金融面における極端な拡張策は、結果として国内の景気の過熱、物価の高騰、土地の価格の上昇を招くことになったのである。
1973年に入り、日銀は相次いで当時の政策金利である公定歩合を引き上げた。4月に0.75%引き上げて年5.0%に。5月に5.5%。7月に6.0%。8月に7.0%。12月には2.0%引き上げて年9.0%としたのである。9.0%は戦後最高の水準となった。
参考、
基準割引率および基準貸付利率(従来「公定歩合」として掲載されていたもの)の推移公表データ一覧(日本銀行)
1973年10月に第4次中東戦争が始まった。アラブ諸国は禁輸措置を実施し、石油輸出国機構(OPEC)は原油価格の引き上げを実施。この結果、石油価格は一気に4倍となり、卸売物価が前年比30%、消費者物価指数は前年比25%も上昇した。いわゆるオイルショックである。
1974年度も総需要抑制策は実施され、この結果、需給ギャップは拡大し、戦後初のマイナス成長となり、いわゆるスタグフレーションに陥った。
1979年4月以降は景気拡大や原油価格の上昇により、本格的な金利上昇局面となった。この際に起きたのがロクイチ国債の暴落であった。
日銀は1980年3月に公定歩合を9.0%に引き上げた。長期金利も大きく上昇し、利率6.1%の10年国債、通称ロクイチ国債は暴落した。4月にロクイチ国債の利回りが12%台にまで上昇し、金融機関がパニック状況に陥ったのである。
その後、日銀の政策金利が9%に達することはなかった。