「贅沢してないだけやねん」 18年 “橋” が職場、路上販売を続ける男性の軌跡
京都に住む人ならば、四条大橋東詰で露店を広げる男性を見かけたことがあるかも知れない。鴨川沿いで自分の作品を売り続けて18年。マラカスとカスタネットを合わせたような音が鳴る楽器を振りながら商いをするのは藤岡ジュンさん(38)だ。京都の繁華街・四条通りと歓楽街・祇園をつなぐ四条大橋に毎日「通勤」している彼に、18年も路上販売を続けていることについての心情を聞いた。
「そこまで考えずにやってるかな」。なぜ18年も、との問いに、ジュンさんは軽く答える。「普通にみんなが職場に行って働く感じやと思うんですけど。あ、やっていけるわ〜って感じやったから、続けて気がつけば18年たっていました」。そこまで強い思い入れはないというが、生半可な気持ちでこれだけの長期間続けられるものだろうか。
ジュンさんは、午前中に商品の発送などを終えた後、大荷物を積んだ自転車で四条大橋まで出勤するのが日課だ。この場所を「リビングにいるみたい。居心地のいい場所ですね」と話す。移動式テーブルにアクセサリーや編み物などを置き、「アサラト」というアフリカの民族楽器を鳴らしながら、足を止めてくれた人に声をかける。「全部手作りです。よければ見てってください」
ジュンさんの扱う商品は繊細で色鮮やかなものが多い。海外から仕入れた石や金属を、ひもや糸を手編みして結び目を作る「マクラメ編み」と呼ばれる手法で覆い、さまざまなデザインを生み出す。「自分にしか出せへん色・形を作ろうとしてます」。客の好みにぴったりのものがなければ、オーダーメードも請け負う。
客が来ない時は、編み物をしながら日が暮れるまでひたすら座り続ける。路上で意識していることは「技術と愛嬌(あいきょう)」。身につけてくれた人が元気になるような作品づくりと、声をかけやすい雰囲気を大事にしていると言う。
三重県で3兄弟の次男として不自由ない幼少時代を送ったジュンさんは、昔から好きなことは突き詰める性格だったと言う。学生時代はサッカーに夢中で、レギュラー争いや試合で当たり負けしないよう、小柄な体を筋トレで鍛えた。「苦しい事も経験」という気持ちで15キログラムの筋肉をつけ、レギュラーだった高校のチームは県内でベスト4に入った。
サッカー部を引退する頃から別の方法でも自分を表現し始め、路上でギターの弾き語りライブなどをした。「場所はどこでもよかったんです。当時は今みたいにイベント系のものがなかったので、手っ取り早く路上に座っちゃおう!って感じで」。これがジュンさんと路上との出会いだった。
高校卒業後、製造業に就職し工場勤務をした。家族は安定した仕事に就いたことを喜んだが、ジュンさんは1年で退社する。「自分に合わなかったんでしょうね」。その時、父親に言われた言葉が彼の人生に大きく影響することになる。
「4年間、ほかの人が大学に行ってる間は好きなことをやってもいい。その代わり一銭も出さないから、自分で稼いで自分の好きなことをしなさい」
父親から条件付きで認められた自由の時間でやりたかったことは、旅に出ることだった。アルバイトで金を貯めてから旅をする選択肢もあったが、「『やりたいことを全部したい』という気持ちがあって」旅先で稼げる方法を探り、沖縄の離島にある宿で住み込みの仕事に就いた。そこで出会った同僚からアクセサリー作りを教わり、自由自在にデザインできる商品づくりに夢中になった。
沖縄滞在は、ジュンさんの中でもうひとつ大きな変化をもたらした。当時の那覇には路上生活者も多く、自分にはできないと思っていた「道で寝る人」を見て、いかに自分の価値観が狭かったかを感じたと言う。
まだ経験が浅かったジュンさんにとって「生き抜く力」を感じた時だった。
そして20歳の冬。成人式のため地元へ戻る交通費がなく、バイトの応募も1週間で7つ落ちた。そこで初めてギターケースの上にアクセサリーを置いて売ってみたところ、4日間で往復の交通費と2次会の費用ぐらいが稼げた。それが路上販売の始まりだった。
その後、ジュンさんはママチャリで日本一周の旅に出た。旅費は全て旅先で作ったものを売って賄う。ほぼ毎晩の野宿も「生き抜く力」を高めるためだと思うと苦にならなかった。
4カ月で47都道府県を回った後には、「どこでもやっていける」という自信がついた。「アルバイトをしていたら月15万円ぐらいもらえてたけど、この4カ月の旅の経験には代えられない」
その後、旅好きのジュンさんは好きだった長渕剛の「ガンジス」という曲にインスパイアされインドへ。バラナシで出会ったバックパッカーからアフリカ民族楽器アサラトを教わり、ハマった。中に小石を詰めた木の実2つをひもで結んだだけのシンプルな楽器が、振り方一つでさまざまなリズムを刻める。ジュンさんにとっては画期的な楽器だった。
自分を表現できるアサラトの音とアクセサリー作りという職。このふたつを両立できる「路上」という場所を見つけたジュンさんは、ママチャリの旅の途中で路上販売がしやすい街だった京都に移住し、今に続く生活スタイルを送り始めた。
路上でアサラトを振っていると興味を持つ人が集まり、その仲間と一緒にライブを始めた。国内外で人気を集め、「鴨印」というユニット名でタイや台湾、ヨーロッパにまで呼ばれたこともある。いまやジュンさんは全国のアサラト奏者が腕を競う「アサラトナイト」で2年連続ファイナリストになるほどの実力者だ。
ギターの弾き語りから楽器は替わったが、路上で自分を表現し続けることに変わりはない。父親から言い渡された4年の期限はとっくに過ぎたが、「自分で稼いで自分で好きなことをする」ということは守っている。「家賃を滞納したこともないし親にお金を借りたことも一回もない」とジュンさんは話す。
「18年路上販売を続けているってことを人に言うと、『そんなに儲かるんや!』ってよく言われるんです。でもそれは違って、贅沢してないだけやねん」と話すジュンさん。最初のうちは実家に戻る度に「就職しろ」と言われたそうだ。「でも今はもう何も言われませんね。結婚もできたし、ミナコさんに任せた!って感じですかね」。笑いながら話すエピソードに、家族からの愛情が感じられる。
妻のミナコさんとの出会いは2013年頃にジュンさんが出店した滋賀県でのイベントでのことだ。「第一印象は、男の人で編み物とかしてるのが(珍しくて)へー!っていう感じだった」。物づくりに興味を持っていた彼女は「運命だと感じた」と言う。
同じ三重の出身だったことで親しくなった2人は、その後も一緒に海外旅行をする仲になった。「旅は1人より2人で見てる方が楽しい」と思ったジュンさんは、結婚を意識するようになったという。
遠距離恋愛をへて一緒に住み始めた2人を、ミナコさんの家族はどう見ていたのか。「私の家族は心配してない。20年弱京都で一人でやっていっていることは信頼に値するから」とミナコさんは話す。お互いの両親の了解を得て、2人は2020年晴れて結婚した。「何をしているか」より「どう生きているか」を、両家族も認めてくれたようだ。
ミナコさんはジュンさんの路上販売について「出会った頃からずっとやってきた事だし、それが好きな事でやりたい事で、他のことはできないだろうから」と応援している。
常識や慣習にとらわれず、やりたいことを追求してきた末にたどり着いたのが、いまのジュンさんの生き方だ。「18年は後からついてきたものなんで、毎日楽しく過ごそうとしてるだけ」
この先についても「(コロナ禍)で厳しい状況ではあるが、とりあえず20年は目指したい」と言う。「20年」に何かこだわりがあるのかを聞くと、またも軽い答えが返ってきた。
「特にないです。節目なだけで。定年もないし」
クレジット
取材・撮影・編集:森本 J 遊矢
プロデューサー:伊藤 義子 庄 輝士 金川 雄策
取材協力:藤岡潤 藤岡美奈子 レストラン菊水
音楽:Sen Morimoto