沖縄「国際通り」不発弾処理で封鎖へ 戦前・戦後の航空写真で街をたどる
2018年1月20日午前10時半、沖縄でも有数の観光地である国際通りで不発弾処理が行われる。
観光客で賑わう通りも、この日の午前中ばかりは立ち入り禁止だ。
処理される不発弾は米国製の50キロ爆弾1発。見つかったのは、通り沿いに建設されるホテルの工事現場(那覇市松尾2丁目5番)。長い間、駐車場だったが、台湾の大手セメントメーカー、嘉新セメントが購入し、ホテル建設に乗り出していた。
2016年度、沖縄県内で不発弾処理された612件のうち99%にあたる605件が今回のように民間の工事で見つかっている。(沖縄タイムス17年6月22日付)
20日の処理中は、現場から半径166メートル以内は入れない。
午前9時半から周辺住民の約1千世帯2500人、約350事業所の従業員、観光客らは避難が必要だ。
午前10時20分からは周辺の一銀通りや浮島通りの車両も通行止めになる。
自衛隊による処理が終了するのは午前11時半の見込み。
2009年には、糸満市で不発弾の爆発事故が起き、二人が重軽傷を負っている。戦後70年以上経っても爆発する危険性はないとは言えない。
戦前、戦争直後の国際通り周辺
国際通り周辺は、普段、観光客でごった返している。
筆者の記憶のある30年以上前も、映画館やデパートなどが通りを埋めるほどビッシリと店が立ち並び、地元の買い物客で賑やかだった。
こんな街中に不発弾がまだ残っているのかと思う人も少なくないはずだし、通りを歩くだけでは不発弾が残された沖縄戦の面影を見つけるのは難しい。
通りは戦後、急速に復興を遂げ、「奇跡の1マイル」と言われた。
ただ、戦前の那覇の市場などのあった市街地は、国際通り周辺ではなかった。
終戦後、米軍から市街地の土地が戻されなかったため、立ち入り禁止ギリギリの場所から復興は始まっていった。国際通りはその象徴ともいえる場所だ。
戦前、戦争直後の国際通り周辺の様子を知る手がかりとなるのが、米軍が撮影した航空写真だ。
沖縄戦デジタルアーカイブでの写真を使用する。(首都大学東京渡邉英徳研究室、沖縄タイムス、GIS沖縄研究室の共同制作)
次の写真1は、1945年1月の現在の国際通り周辺を撮影したもの。黄色の線が現在の国際通りだ。
戦前の通り周辺は、畑が広がる地域で、家屋もほとんどなかった。
<写真1>
1944年10月10日の十十空襲で、那覇市街の9割が失われたと言われている。
写真の左上はすでにやけ払われてしまった様子が見て取れるが、国際通り周辺は、木が生えていたり、土地に凹凸があるのが分かる。
1945年6月23日に沖縄は組織的戦闘が終結。12月に撮影された写真2ではこう変わった。
<写真2>
写真1と比べると、道の形はぼんやりと残しながらも、土地の立体感はほぼなくなり、通り周辺は壊滅的だった様子がうかがえる。
沖縄総合事務局が公開している「不発弾等事前調査データベースシステム」では、不発弾処理がされた場所をデジタル地図上に落とし込んでいる。写真1・2とその周辺地域で発見された不発弾に絞っての処理状況を見てみると、相当数が埋まっていたことが分かるだろう。
すべての不発弾がなくなるまであと70年
そもそも、不発弾とは何か。那覇市役所のホームページによると
危険な不発弾だが、16年度の処理件数は612件。単純計算でも1ヶ月で51件処理されたことになる。
週末はたいてい、県内のどこかで不発弾処理が行われ、住民は避難しなければならない。介護施設や病院なども避難の対象範囲に含まれている場合ももちろん避難が必要だ。
メディアも避難の必要があるたびに広報する。
陸上自衛隊は16年度、全国の処理件数のうち44%を沖縄で占めたと発表した。
探査機などを使って不発弾を見つける事業も未だ進められている。
沖縄では、16年度までに36762件の不発弾が処理されてきた。
一つのプロットが大きいこともあるかもしれないが、これまでに発見され、処理されてきた不発弾を可視化すると中南部の形がわからないほどになる。
戦後73年。
沖縄での不発弾の処理がすべて完了するまでにあと70年かかる見通しだ。
不発弾処理は、沖縄で暮らす人にとってはまだ「日常」であるが、沖縄に足を運ぶ観光客にとっては「非日常」である。
危険が伴う処理である。
皮肉な追体験だが、戦前、戦中、戦後の歴史の記憶が交差できる機会にもなるだろう。
1月20日は光と影を感じる国際通りになるのではないか。