4、50代になってから買い叩かれないように、能力向上に努めたい。たとえ勤務先が終身雇用でも。
先日、都内に無数に存在する、電源を貸してくれ、珈琲のあとにお茶が出ることでよく知られる喫茶店チェーンで原稿を書いていた。不思議なことに、原稿書きに愛用しているこのチェーンでは、宗教、押し売り、保険から始まるありとあらゆる勧誘、マルチ商法を目にし、社会の恐ろしさと、「美味しい話」を疑うことなく、ほいほい契約する人々を何度も目撃して震撼してきた。その日は30代と思しき男女2人組の転職エージェントらしき人物が、ずっと転職希望者の面接を行っていた。
そもそも喫茶店のようなセミオープンな空間で本来それなりにセンシティブであるはずの転職の話を提案された時点で、そのエージェントを使う気はちょっとしないが、それでも次から次へと4、50代の中高年の男性が面接にやってくる。実際、否が応でも話がちらちら耳に入ってきてしまう。最初は景気が底を打ったといわれているから、人手不足で転職市場も活性化しているのかとも思えたが、どうやらそれほど単純なものでもないようで、大変暗い気持ちになった。
奇妙なことに、転職を希望し、自己PRの場に立っているはずの、男性たちの弁は実によく似ていた。「人の気持ちを考えながら、サービスを作ってきた」「チームを支えるのが得意」「システムの保守点検をずっとやってきた」。共通するのは、その具体性の乏しさである。来る人来る人、良い年どころか、4、50代で働き盛りで、大手有名企業に勤めていた人物ばかりのようだった。そうであるにもかかわらず、驚くほど共通したのが、それまでのキャリアで培ってきたスキルと成果について、具体性のある話ができずにいたことである。
バブル世代前後のそこそこ人口ボリュームが多く、また景気のあまり良くなかった世代で、部下なし管理職だったりしたのかもしれない。あるいは、自己PRなど就職活動以来で、キャリアについて時系列に起きたこととその成否を語るのではなく、後から振り返ってストーリーにするといった発想もないのかもしれない。
「これでは、仮に彼らが有能で、スキルの高い人物だったとしても、採用する積極的理由に欠くなあ」などと漠然と思っていたが、市場は遥かに残酷だった。最初黙って、時折頷きながら話を聞いてていた2人組の――そして面接を受けている人たちより一回り以上若い――、転職エージェントらは畳み掛けるように、マーケティングや最近のIT技術やサービスの動向について、大量にカタカナが入った言葉を用いて、にこやかに問いかけはじめたのだ。
明らかに被面接者たちは会話についていけていなかった。しどろもどろになったり、戸惑いの表情を浮かべながら、曖昧な返事をするに留まっていた。こうしたやりとりが一定時間続いたあとで、溜息とともにエージェントたちが判決のように繰り出すのは、「残念ですが、現状の水準を維持するのは難しいと思います。それでよろしければ、幾つかご紹介できる案件があります。今日判断するのは難しいと思いますので、またいつでもご連絡ください。珈琲のお代は結構です」という文言である。
これがテンプレートだと気付いたのは、このパターンが隣席で何度も何度も繰り返されたからである。カタカナ語が使えるかどうかが重要なのではない。おそらくはその業界の最新の動向をフォローしているか否か、そういったものをフォローしようという感度を持っているかどうかを見ていたのだろう。それらをフォローできていないということを白日のもとに露呈させることで、諸条件がとても現在のものを維持できないことを納得というか、力づくで合意させていたといってもよい。4、50代の男性たちは、完全に買い叩かれていた。
1997年に破綻した山一證券の企業整理を担い、最後まで同社に残った人たちと周辺の人々を描いた、清武英利氏の名著『しんがり 山一證券 最後の12人』(講談社)や、2000年代末〜2012年頃にかけての三洋電機の再編を描いた大西康之氏の『会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから』(日経BP社)のなかに、終身雇用を前提とした企業を追われた人たちの壮絶なその後が描かれている。山一證券から20年弱、三洋電機から約5年の歳月が経過したが、これがそれらの書籍で描かれていた現実なのかと思った。
それなりに役割があった人々が無残に値切られていく様を見てそれなりに暗澹たる気持ちになった。が、これも現実の1つの側面なのだろう。日本生産性本部が公開した『2015 年度新入社員春の意識調査』は、年功重視の給与体系と昇格制度を希望する人の割合が過去最大になったことを伝えている。若年世代もまた日本型雇用を懐古しているようにも読める。日本型雇用システムや終身雇用制、年功序列型賃金は興味深いし、歴史的には十分にその役割は評価できるが、どうも取り戻せる気配はまったくしない。終身雇用だと思っていた企業の底が抜けているといったケースもありそうだ。政治に目を向けるとき、確かにこうした社会や企業のあり方を批判することも重要だが、リスクを評価し、マネジメントしていく必要もあるのではないか。
時折、仕事で院生や学部生のキャリア観を耳にする。単線的なキャリア観の人が多い印象を持っている(「〜業界に行きたいです」)。だが、新卒一括採用のレールに乗っている時点で、すでに最初の値踏みのまな板に乗っている。誤解のないように急ぎ付け加えると、これは「就活するな」とか「新卒一括採用はムダだ」いうメッセージではない。そもそも、22歳頃に、具体的に自分のスキルと成果のポートフォリオを組めているというのはあまり現実的とも思えないし、筆者にもそんなものがあったわけではない。しかし、それでも企業が人材に投資し潜在的能力を、企業に適した形で開発するということを前提に、値段が付いている(採用され、給料が決まる)。このことが、先行世代と同じレールの端緒にいるということを意味しているという点に注目したい。漫然としているならば、メリットのみならずデメリットをも繰り返す可能性は十分あるだろう。日本型雇用の寿命はどれほどだろうか。それに比べると、人生のほうが長そうだ。第1志望の企業、業界に行けようが行けまいが、終身雇用の会社に決まろうが決まるまいが、極端なことをいえば正規だろうが非正規だろうが、長い射程と日々の砂を噛むような努力を組み合わせて、それぞれの道を切り開いて歩いて欲しい、などということを漠然と考えた。