笑福亭仁鶴さんの何がすごかったのか。島田洋七が語る“発明”と2枚の色紙
17日に骨髄異形成症候群で亡くなった落語家の笑福亭仁鶴さん。「B&B」としてMANZAIブームで頂点を極めた島田洋七さん(71)はデビュー当時、仁鶴さんの高座を日々舞台袖から見て「徹底的に勉強して、笑いのパターンを盗ませてもらった」と話します。洋七さんが語る仁鶴さんのすごいところと“発明”。そして、仁鶴さんからもらった2枚の色紙に書かれていた言葉とは。
今の嫁さんと駆け落ちして九州を出て大阪にたどり着いたのが21歳の時。今からちょうど50年前ですわ。
大阪に住んでいた野球部の先輩から「せっかく大阪に来たのなら、漫才、落語、新喜劇を見た方がいい」と言われて、当時のなんば花月に行ったんです。
それまで、僕はお笑いなんてほとんど見たことがなかったし知識もなかったんやけど、トリで(演者の名前が書かれた)“めくり”に笑福亭仁鶴という文字が出た瞬間に、聞いたことないような歓声があがったんですよ。ほんでまた、ネタがムチャクチャおもろい。客席も大爆笑につぐ大爆笑ですよ。
そうやって15分の出番を終えて、終演後、僕がたまたま劇場の周りを歩いていたら、そこに仁鶴師匠が出てきはったんです。ロールスロイスに乗って。「15分しゃべって、この車に乗れるんや…」と思ったのが芸人の道を志したきっかけです。
そこから、その野球部の先輩の紹介で吉本興業に見習いみたいな感じで入るわけですけど、もともとお笑いに詳しかったりするわけではないので、入ってからとにかく先輩の舞台を見て勉強するわけです。そこで一番勉強させてもらったのが仁鶴師匠でした。
同じ漫才の「横山やすし・西川きよし」師匠のネタももちろん勉強させてもらっていたんですけど、僕個人の「B&B」での立ち位置というか、僕がバーッとほぼ一人でしゃべって進めていくというスタイルにおいて、一人しゃべりの仁鶴師匠という存在はとても大きかったんです。
まず、ダントツにウケてるわけです。これは誰が見ても分かります。そして、なんでそこまでウケるかを見て考えたら、ネタフリが早いし、オチも早い。ほんでね、その当時はまだ周りがやってなかった二段オチ、三段オチを一人でしゃべる中で入れてたんです。
「この間ね、全国ネットのボンカレーのコマーシャルを撮ってきたんです。コマーシャルって短いでしょ?でもね、ボンカレー、ボンカレーばっかり言うて、気がついたら11時間たってましたわ」
細かい話になるけど、これでもオチてるわけです。CMは短いとネタを振って、オチで回収してるわけです。それを仁鶴師匠のキャラクターと口調で話すので、この時点でウケてるわけです。でも、そこで仁鶴師匠は終わらんのです。
「…ま、言われたらまたやりますけど」
ここで二段オチになるわけです。時代とともに、笑いもどんどん変化して、進化してますけど、当時、この“もう一ついく”というのがなかった。仁鶴師匠は明らかにシステムとしても新しいことをやっていたんです。だから、あれだけ売れたんです。
僕らは当時はまだ若手のペーペーやから、劇場ではトップ出番で出るわけです。そこからトリの仁鶴師匠までは2時間くらいある。でも、それを待ってネタを見るわけです。そうするうちに、仁鶴師匠も「よう見てるな」と覚えてくださって。
そうこうしてるうちに僕らもだんだん売れてきて、出番もトリの仁鶴師匠の一つ前くらいになってきた。その時ももちろん仁鶴師匠のネタは見てたんですけど、ある日、師匠から言ってもらったんです。
「これだけ売れても、まだ見てんのかいな(笑)。ま、一人やったら、二段オチ、三段オチがギリギリのラインや。でも、漫才やったらさらに四段、五段といけるかもしれん。考えてみたらよろしい」
ネタの仕組みの話なんて仁鶴師匠は自分からおっしゃらないし、こっちのネタの仕組みについてもおっしゃることはなかったんですけど、それをポツリとおっしゃった。
こっちを見てくださっているのもうれしいし、どれだけ仁鶴師匠が笑いと向き合い、次々と発明品を生むために研究をされているのか。ホンマに短い言葉でしたけど、そこにあらゆるものが詰まっていた気がしましたね。
「B&B」のネタで「最近は英語の勉強もせなアカンわね。おまわりさんはポリスマン。守衛さんはガードマン。八百屋さんはピーマン…」と進んでいくのがあるんです。
まず、その「ピーマン」のところでウケるんです。ただ、そこから二段、三段とやっていかなアカンと思うから「なんでピーマンやねん!八百屋のオッサンがピーマンやったら、酒屋のオッサンはキッコーマンやないか。ほんで、アタマがさびしかったら“薄口もあります”となるんか!」と作っていったんです。これで三段までいってるわけです。これなんかは、完全に仁鶴師匠のシステムを使わせてもらっているパターンですわね。
そうやって何段も重ねるのもありましたし、さっきまでしてた話をスコンとすかす笑いもやってらっしゃいました。それも僕らの中に取り入れてました。
洋七「お前、ところで何年生まれやったっけ?」
洋八「昭和25年やけど」
洋七「それがどないしてん」
洋八「お前が聞いたんやないか!」
このシステムも他に誰もやってなかったですし、やろうと思っても、間とトーンの芸ですから、ものすごく難しいんです。それを仁鶴師匠は生み出してフル活用されてました。
今から17年前、僕が吉本興業を辞めて東京に行くとなる少し前の時期でしたけど、仁鶴師匠にサインをもらったんです。
もう吉本も離れるし、芸人が芸人にサインをもらうなんてことは普通ないんですけど、純粋に仁鶴師匠のサインが欲しいから楽屋を訪ねたんです。
向こうも、まさか僕自身がサインを欲しがってるなんて夢にも思わないから「宛名はなんて書いたらエエ?」と尋ねてこられたので「僕が欲しいんです」と言うたんです。そしたら「同業者にサインなんて書いたことないわ(笑)。でも、分かった。預かっとくわ」と言って1週間後、色紙2枚に文字を書いたものをくださったんです。「こんなん、芸人に書いたことないけど、考えてきたわ」と言いながら。今でも僕のベッドの横に2枚並べておいてます。
1枚には「雑談」「虚笑」と書いてあって、もう1枚には「みてござる」と書いてありました。それをもらう時に言葉もいただきました。
「まず、漫才でも落語でもやってることは“雑談”やろ。そして、ウソ話や。落語に出てくる人物も、あんなアホは普通はおらん。それで人に笑ってもらう“虚笑”やねん。君のネタそのままやろ。人にウソついたらアカンけど、ネタではウソついてもエエねん。ほんでな、もう1枚、これは絶対に芸人が忘れたらアカンことやで。“みてござる”。これはお客さんや。お客さんがお金を払って芸人さんをしっかり見てはんねん。命がけで笑わせちゅうことや」
師匠の訃報が流れた日、僕は自分の部屋にこもって、この2枚を見ながら2~3時間泣いてました。そらね、いつかそうなるやろということは分かってる。せやけど、そら、悲しいわね。ただ、これを書いてもらっていてホンマに良かった。
自分の芸をこの色紙が肯定してくれている気がするし、今も師匠がそれを言うてくださってる気もするし。同業者からサインなんてもらったことなかったんやけど、あの時、もらっておいて良かったと心底思います。
…って言うてるけど、この話はウソちゃいますよ(笑)。ホンマに、ホンマに、そう思ってますし、当たり前やけど、師匠には感謝しかないです。
■島田洋七(しまだ・ようしち)
1950年2月10日生まれ。広島県出身。本名・徳永昭広。71年に「島田洋之介・今喜多代」に入門し、72年にデビュー。74年、現在の上方よしおと組んでいた「B&B」として「NHK漫才コンテスト」で優勝に該当する「優秀話術賞」を受賞する。75年に相方を島田洋八に変えた「B&B」で、80年代の漫才ブームにおける牽引者となり、フジテレビ「笑ってる場合ですよ!」などレギュラー番組多数。2004年、小学2年から中学卒業までの8年間を過ごした佐賀の祖母を綴った小説「佐賀のがばいばあちゃん」が注目され、シリーズ本が累計1000万部を超えるベストセラーとなった。また、およそ30年前から1時間以上しゃべりっぱなしの講演会を開催。多い年には年間約300カ所で行うほどの人気を誇る。