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組織のリーダーになるためには、「こども」かつ「おとな」であらねばならない

曽和利光人事コンサルティング会社 株式会社人材研究所 代表取締役社長
おとなの階段は長く険しい(写真:アフロ)

■リーダーは現実主義者でなくてはならない

経営者や事業リーダーという仕事は因果な商売で、見たくないような人の汚い部分や組織の理不尽さなど(誇張した例が以前やっていた「半沢直樹」など)についても目をそむけずに見ていく必要があります。

そういう意味で、経営者や事業リーダーはリアリストであることが求められます。信じたくないようなことでも、ありのまま現実を捉えなくていけません。

そのためか、長く経営者や事業リーダーをやるとまれに世を拗ねた考え方になってしまうような人がいますが、それもまあ致し方ないことではないかと思います。「所詮、現実なんてこんなものだ」と。

■経営者や事業リーダーは理想家でなくてはならない

それでいて経営者や事業リーダーは、一方では、会社の理念や事業の目的を達成するために美しい理想を追い続けていく役割でもあります。デイ・ドリーム・ビリーバーにならなくてはならない。

ジョン・レノンのイマジンではありませんが、みんなは自分を夢想家だというかもしれないが、そう考えている人は自分だけじゃないと言いながら、永遠に到達できないと半ば理性では分かっているゴールに向かって努力をし続けるということもしなければなりません。

■「一体、どちらが大切なのか」→「どっちもです」

日本語では、そういうことを「清濁併せ呑む」という言葉で表現しますが、まさに経営者や事業リーダーはきれいなことも汚いことも、一緒くたに自分の中に取り込んで、それでなお、気が狂わずに、冷静に、しかも情熱的に、仕事をしていかなくてはならないわけです。

「おとなになる」と言ってもよいかもしれません。いくら「心は少年」とかモテ男みたいな感じになりたくても、そうは言っていられないのです。

正直言うと、私はそういうことが若い頃はできませんでした。とてもこどもだったと思います。

人事の中でも最初に配属された採用という仕事は割と理想家のままでいられたので、しばらくの間は特段の葛藤もなく、なんとかやっていけたのですが、その後、別の生々しい方の人事の仕事にも関わるようになると、途端に理想と現実のギャップに引き裂かれて、自分は一度壊れてしまいました。情けないことです。

※このあたりの様子は「恥ずかしいキャリアの私」に書きましたので、もし関心を持っていただけましたらご笑覧ください。

この「清濁併せ呑む」は別にすべての人に必要なわけではありません。理想の方を追い続ける社会的役割の人になってもよいですし、徹底した現実主義の人として「要はカネだろ」とか言いながら資本主義経済社会を支える一員として頑張る人になってもよいと思います。どちらも俯瞰すれば社会が成り立つことに貢献していると思います。

ただ、経営者や事業リーダーという仕事をするときには、どうしてもこの理想家と現実主義者の二重人格を持たなくてはならないと思うのです。

■理想家が現実主義を受け入れるという道

経営者や事業リーダーになりたいと思うような人は、まずはスタートラインは理想家であることが多いように思います。あんな面倒くさい人の世話ばかりをする仕事をやりたいなんて、「人」というものに対する理想や期待を持っていなければできないでしょう。

どんなことをしても批判の対象になる。どんな判断も全員を満足させることはできないからです。相談する人もいない。孤独に決断しなければいけない。

こんな仕事は、理想のために自己を犠牲にするような気持ちの無いような人はできないでしょうし、やるべきではないでしょう(これは私の好き嫌いですが)。

ですから、多くの経営者や事業リーダーの方々にとって「おとな」になるということは、ピュアな理想家から、徐々に現実主義を受け入れていくというパターンが多いのではないかと思います。

■現実への絶望から始める

では、どうすれば現実主義を受け入れていくことができるのでしょうか。信じたくないことでも、見たものを事実としてきちんと受け止めていくことができるようになるのでしょうか。

それは「現実に絶望すること」です。言い方を変えれば「いろいろ諦めること」です。現実なんてそんなにきれいなものではないと。

お釈迦様は、「四諦」と言って、人生はそれ自体が苦であるとか、それは煩悩から生まれるとか、煩悩を消さないと苦からは逃れられないとか、そういう「あんまり言ってはダメなこと」を空気を読まずにストレートに諦めることが悟りへの道だと説いたようです。「諦める」の語源も、「明らむ=明らかにする」と、「理に合わないことを捨てる」という意味があります。

自分の中にある「こうなったらいいのにな」という願望(煩悩?)が、現実とは異なるのであれば、それをきちんと認めて諦めることができれば、いつまでも後ろ髪をひかれることなく、「もうそれ(認めたくない嫌なこと)は仕方がない。それを前提として前に進んでいくしかない」と初めて考えることができるということです。

■絶望できない人が陥る地獄

きちんと絶望できない人は、どうなるか。エリザベス・キューブラー=ロスの「悲しみの5段階」(人が受け入れがたい悲しい現実を受け入れ克服していく過程)を参考に考えると、いろいろな地獄が待っているようです。

一つは、「否定地獄」。「いやいやいや、そんなことは無い無い」みたいなことをずっと思っている。現実にバリアを作ってしまって、直視しようとせずに、なんやかんや言い訳をつけたり、都合のよい解釈をして、「そんなことは無かった」と自分に言い聞かせる。地獄ですよね。目の前の現実と、ありもしない幻想の辻褄を合わせるのに、どれだけ労苦が待っていることか。

子どもを亡くしたお母さんが、それを認めることをできずに彷徨っていた時に、お釈迦様は「一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらってくるように」と伝えました。お母さんは言われたとおりにそういう家を探しているうちに、そんな家はどこにもない、どんな人でも死は身近にあるのだと、はっと気づき、「否定地獄」から逃れたという話がありました。

■その他の地獄

他にもあります。「怒り地獄」。これはある程度、現実を認めることに一時的に近寄っているわけですが、「なんでそんな理不尽で不当な現実になっとんねん!あかんやろ!」と、行き場のない怒りに囚われる地獄です。これも、結構な地獄です。怒ったって、もうその現実はどうしようもないのです。怒るのにはとてもパワーがいります。怒りの中にいる人はどんどん疲れていきます。

まだあります。「交渉地獄」。「いや、今のところの現実はそうなっているように見えるかもしれないけれども、なんとかすれば、それはなんとかなるんじゃないか」といろいろ足掻いて、誰かと交渉してなんとかしてもらおうという地獄です。でも、交渉する相手などいません。神様には交渉できません。ありもしない交渉相手に、「こうしたらなんとかならないか」とずっと打診し続けているのは無益で辛いことです。

そんな風に考えていくと、どんな厳しい現実であったとしても、そんな地獄に留まるのではなく、直視して、諦めてしまう方が、結局は前に向いて、ポジティブなことにエネルギーを使うことができるのではないでしょうか。

■現実への絶望と未来への希望は両立する

何か矛盾することを言っているように聞こえたかもしれません。現実に絶望なんかしていたら、理想家などにはなれないじゃないかと。そう認識されたのであればごめんなさい。

しかし、私の意図はそういうことではありません。むしろ、理想家になる≒未来に対して希望を持つことは、現実を正しく認識し、上述のような意味で絶望してからがスタートではないかということです。

誤った前提からスタートした論理から導き出される結論は、当然ながら誤ったものになります。正しい前提からスタートしなければ、どんな物事も正しいゴールには到達することができません。

もちろん、厳しい現実から遠い理想を見てしまうと、心が折れてしまうこともあるでしょう。「理想はあんな先にあるのか」「追いかけても、つかめない」という気分にもなるでしょう。しかし、幻想である思い出を抱いているよりも、忘れて諦めてしまえば、もっと良い未来の理想が待っているのです。

私は、経営者や事業リーダーとして本当に強い人というのは、そういう「認めたくない現実」を嫌でも受け入れながらも、いくら遠かったとしても「実現したい理想」を捨てない人ではないかと思います。

そして、それがいわゆる「おとな」なのではないかと思うのです。

人事コンサルティング会社 株式会社人材研究所 代表取締役社長

愛知県豊田市生まれ、関西育ち。灘高等学校、京都大学教育学部教育心理学科。在学中は関西の大手進学塾にて数学講師。卒業後、リクルート、ライフネット生命などで採用や人事の責任者を務める。その後、人事コンサルティング会社人材研究所を設立。日系大手企業から外資系企業、メガベンチャー、老舗企業、中小・スタートアップ、官公庁等、多くの組織に向けて人事や採用についてのコンサルティングや研修、講演、執筆活動を行っている。著書に「人事と採用のセオリー」「人と組織のマネジメントバイアス」「できる人事とダメ人事の習慣」「コミュ障のための面接マニュアル」「悪人の作った会社はなぜ伸びるのか?」他。

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