【幕末こぼれ話】初代総理大臣の伊藤博文には、イギリス公使館を放火した黒歴史があった!
わが国の初代内閣総理大臣となった長州藩士伊藤博文は、若い頃に品川御殿山のイギリス公使館を同志とともに焼き討ちしたことがあった。
幕末に流行した攘夷、すなわち外国勢力を排除する思想によるものだが、放火というのは今も昔も許されざる大罪である。
初代総理大臣に就任するほどの人物が、なぜそのような暴挙に出たのか。当夜の状況を調べてみよう。
御殿山のイギリス公使館
事件が起きたのは、文久2年(1862)12月12日。高杉晋作をリーダーとする長州藩の過激派は、攘夷の先駆けとして、品川の御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き討ちする行動に出た。
御殿山は景勝の地として知られ、幕府がそのような場所に外国の公使館を建てたこと自体、攘夷派志士たちにとって憎むべき行為だった。建物はほぼ完成し、まもなくイギリス公使を迎え入れようというタイミングで、高杉らは焼き討ちを決行したのである。
メンバーは、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文(俊輔)、井上馨(聞多)、寺島忠三郎、山尾庸三、有吉熊次郎、赤祢武人ら12人。彼らは品川の妓楼・土蔵相模に集まり、酒を飲みながら深夜1時の決行時刻を待った。
やがて刻限になったので、一同が御殿山に登ると、立派な二階建て洋館造りの公使館が目に入る。まだ内部に人はいなかったので、燃やすにはうってつけの建物だったということもできた。
ところが、建物の周囲には大きな丸太で柵が設置されていて、中に入ることができない。下からもぐり込むこともできず、上から飛び越すことはなお難しい。
みな顔を見合わせて当惑するばかりで、知恵者の久坂玄瑞でさえ、
「誰一人、この関門を破ることに気づかなかったのは残念だ」
と歯ぎしりして悔しがった。
機転をきかせた伊藤博文
するとその時、伊藤博文が腰から一本ののこぎりを抜いて出し、一同に見せたのだった。
「拙者、かくあらんと考えたから、この利器を用意してきた」
このことについて、伊藤自身が回顧録で語っている。
「鯨飲放歌の真っ最中に予はひとり考えた。公使館のことであるから周囲の防御が厳重であろう、これを破る用意が肝心であると思った。そこでみんなの飲んでいる間に、ちょっと品川の夜店をひやかしながら何かないかと見ると、幸い手ごろな一張ののこぎりがあった。値は二朱(約1万2500円)だというから、それを買って帰ってきた」(「伊藤博文直話」)
伊藤の持参したのこぎりを見て、一同は歓喜した。さっそくそののこぎりで丸太を切り、2本ほどもはずすと人が通れるようになった。
公使館の内部に侵入し、戸障子をはずして積み上げ、火をつけると、やがて大きく燃え広がり、建物は炎上した。焼き討ちの成功を確信した一同は、怪しまれないように悠々と引き上げ、三々五々別れて酒楼で再び飲み明かした者もあれば、帰って寝た者もあった。
事件後に幕府は犯人を追及したが、ついに判明することはなかった。志士たちの焼き討ち計画は見事に成功したのである。
その成功のカギを握っていたのが伊藤博文であったことは、現在あまり知られていない。こうしてみると、のちに伊藤が初代総理大臣として大成したのは単なるめぐり合わせや幸運ではなく、「焼き討ちにはのこぎりが必要」ということに思い至る、ひらめきを持つ人物であったからといえるのかもしれない。