1999年2月のゼロ金利政策決定の裏側 その2
1999年2月10日に小渕首相(当時)は、買いオペ増額検討は日銀の専管事項とあらためて発言した。政府は日銀による国債引き受けや国債の買い切りオペ増額はこの時点であきらめたとみられる。
そして2月12日の金融政策決定会合を迎えることとなる。ゼロ金利政策を決定したこの金融政策決定会合では実際に直接的なプレッシャーが日銀にかけられていたのかどうか。
すでにこの会合の議事録が公開されている。議事録を読む限りにおいて、米国のルービン財務長官の外圧とか政府からの圧力といった発言はない。
「1999年2月12日金融政策決定会合議事録」
https://www.boj.or.jp/mopo/mpmsche_minu/record_1999/gjrk990212a.pdf
ただし、同年1月の決定会合議事録と明らかに異なっている点に、長期金利の上昇と円高を危惧していることが窺える。
当時、審議委員として参加していた植田現日銀総裁は、「金利高、あるいは円高の不安に対しては、普通に考えて金融政策の出番である」と発言していた。
対応策として、ひとつは現状維持、もうひとつは何らかのかたちで長期国債の市場へ介入すること、三番目にオーソドックスな金融政策の手段を用いて緩和方向への動きを採ることであるとした。
結果的にはこのときの日銀は三番目の追加緩和策を採った。
これは想像の域を脱しないが、結果として日銀は、米国サイドからの圧力による政府の意向をくみ取って独自に追加緩和を判断したと考えたほうがよいとは思う。何もやらないわけにはいかないという状況に追い込まれていたとみて良いのではなかろうか。
無理にやらせられたという意識はそれほどなくても(当時とすれば)究極の金融緩和策を取らざるを得なかった。その要因が景気とか物価というものより、長期金利や米国サイドの状況にあったということが日銀としてもやりづらい部分でもあったと思われる。
国債引き受けや買い切りの増額、まして量的緩和策などを無理にとるかわりのゼロ金利政策であったといえる。議事録からもそれはうかがえる。
だからこそ日銀は長期金利の上昇の落ち着きを待って、1年後の8月にゼロ政策を解除しようとしたとみて良いかと思う。
ただし、この2000年8月のゼロ金利政策の解除に対しては、当時の植田審議委員は反対票を投じていた。
ゼロ金利政策に追い込まれた経緯はよくわかっていたはずの植田氏が何故、反対したのか。もしこの後の米国のITバブルの崩壊を予知していたとすればそれはそれですごいことではあったのだが。
念の為、2000年8月11日の金融政策決定会合議事録で、植田審議委員が反対票を投じた理由のひとつして「待つことのコストが足許のインフレ動向から判断して、それほど大きくはないのではと思えることである」とあった。どこかで聞いたことがあるような。
「2000年8月11日金融政策決定会合議事録」
https://www.boj.or.jp/mopo/mpmsche_minu/record_2000/gjrk000811a.pdf