息子死なせた加害者、全財産は7000円 謝罪も賠償もないまま母国へ…
「息子はこの交差点を横断中、飲酒運転の車に衝突され、一瞬のうちに40メートルもはね飛ばされました。病院で対面したとき、頭がい骨は大きく陥没し、いたるところから血が流れ出て、まさに地獄絵図のようでした。通りなれた道を、まさか無灯火の車が猛スピードで逆走してくるなんて、想像すらできなかったと思います」
名古屋城から東へ約1キロの場所にある「清水三丁目」という名の小さな交差点。その一角にある石造りの建物には、昭和33年製のレトロな市電の先頭部分が埋め込まれており、行先表示器には『交通安全』という文字が掲げられています。
近所に住む眞野哲さん(60)は、その前に佇み、横断歩道を見つめながら語ります。
「あの日から、今年で11年目を迎えます。でも、まだ私の中では何ひとつ終わっていません。7年の刑を終えて出所した加害者は、息子への謝罪も、そして1円の賠償もしないまま、母国のブラジルに帰国してしまったのです」
■母国でも免許を取ったことがなかった加害者
眞野さんの長男・貴仁さん(当時19)は、2011年10月30日、この交差点を自転車で横断中、車にひき逃げされ亡くなりました。
大学生活を謳歌していた貴仁さんの命を一瞬にして奪ったのは、Mというブラジル国籍の男(当時47)でした。
10月29日の夜、名古屋市内でハロウィンパーティーに誘われたMは、車を運転し、名古屋市中区のディスコに出かけました。
本人の供述によると、この店で友人数名と共に、テキーラをショットグラスで6杯、生ビールを中ジョッキ3杯ほど飲み、今度は小牧市内のナイトバーへ行くため、午前3時半頃、再び車を運転して走り始めたのです。
間もなくMは、信号待ちで停止していた車に追突しました。しかし、警察に捕まるのが怖くなって逃走し、国道からわき道に入ります。そして、前照灯を消したまま一方通行を逆走。午前3時49分、「清水3丁目」の交差点で、友達の待つカラオケ店に向かおうとしていた貴仁さんに衝突したのです。
貴仁さんは自転車もろとも加害車の進行方向にはね飛ばされ、道路に投げ出されました。
しかしMは、血を流して路上に横たわる貴仁さんを救護するどころか、車から降りることもせず、クモの巣状に割れたフロントガラスの隙間から前をのぞくようにしてアクセルを踏み込みました。そして、民家の塀に車をぶつけながら、タイヤをバーストさせた状態でさらに逃走を続けたのです。
警戒中の警察官によって確保されたのは、それから約1時間半後、午前5時半頃のことでした。
このときの所持金は7000円。
「これが全財産だ」
Mはそう供述していたといいます。
眞野さんは語ります。
「Mは、ブラジル・サンパウロ州の高校を卒業後、農業などを経て日系三世の女性と結婚。32歳のとき友人のつてを頼って日本に入国し、愛知県の派遣会社に登録したそうです。その後、就職した自動車部品会社で『派遣切り』にあい、事故を起こすまでの約1年間は無職でした。次の就職先が決まったのは、事故の2週間前です。この会社には従業員用の送迎バスがあり、通勤にマイカーを使う必要はありませんでした。そもそも、Mは母国ブラジルでも運転免許を取ったことがなかったそうです。にもかかわらず、車検も自賠責保険も切れていた元妻名義の車をそのまま乗り続け、結果的に息子は、その車に殺されたのです」
■「無免許でも長く乗っていれば技術がある」と検事は言った
無免許、飲酒、当て逃げ後の逆走、無灯火、無車検、無保険……、これほどの悪質運転で引き起こされた死亡事故であり、ひき逃げ事件です。誰もが「危険運転致死罪」で起訴されるものだと思っていました。
しかし、Mは、「自動車運転過失致死罪」と「道路交通法違反」で起訴され、結果的に「過失」としては最も重い、懲役7年の実刑判決が下されました。
眞野さんはこの刑事裁判に、今も納得できないと言います。
「私は名古屋地検の検察官に、何度も危険運転で起訴すべきだと訴えました。しかし、返ってくるのは、『本件には危険運転にあたる要件はひとつもない』という答えでした。たとえ飲酒していたことが事実でも、『逮捕された後、片足でまっすぐに立てたので、飲酒運転とはいえない』『逆走は危険運転には当たらない』『無免許でも、長い間乗っていれば技術がある』検察官はそう繰り返しました。交通事故にはどうしても避けられないような不幸な事故もあるはずです。死亡事故だからと言って、すべて厳罰化だ、懲役だと言うつもりはありません。でも、Ⅿは酒を飲んでハンドルを握った、それ以前に無免許です。クルマを運転する資格がないということです。それはもう、過失では済まされないと思うんです」
眞野さんはMを相手に民事裁判を起こし、約4000万円の損害賠償が認められました。
しかし、Mには資産が一切なく、自動車保険もかけていませんでした。たとえ眞野さんが勝訴しても、その判決文が紙切れに過ぎないことは、最初から承知の上での裁判でした。
■刑務所で加害者に面会して交わした『約束』
2018年3月、眞野さんはある行動に出ました。刑務所に収監中のMに面会することを決意したのです。
突然の遺族の来訪を、Mは受け入れました。そして、眞野さんは初めて加害者本人と直接対面することになったのです。
「息子の命を奪った男は、グレーの作業着に身を包み、刑務官に連れられて私の前に現れました。身長193センチの大きな身体で、頭は丸坊主でした。『こいつが息子を殺したんだ……』何とも言えない思いがこみ上げました」
面会時間はわずか20分です。
眞野さんは振り返ります。
「私は彼にこう尋ねました。『今、どういう気持ちなんだ』と。すると彼は、『申し訳ない』と言いました。『では、刑務所を出たら、息子に謝罪に来るように、そして、少しずつでもいいから賠償し、誠意を見せるように』私がそう言うと、『わかった、一生かけて償う。約束する』と答えました。『約束だぞ』私は彼の言葉を信じ、面会室のボード越しに、グータッチをして別れたのです」
翌月、眞野さんは再び面会に出向きました。しかし、Mは「会いたくない」と拒否しました。
まもなく、Mは刑期を満了して出所しました。
しかし、それから1年たっても、眞野さんのもとに謝罪に訪れることはありませんでした。
■遺族に黙って母国ブラジルへ帰国していた加害者
民事裁判の判決は、10年で時効を迎えます。それを有効にしておくためには、再度、提訴する必要があり、そのためにはMの住所が不可欠です。しかし、Mが出所後、どこに住んでいるのか、遺族にはその情報すら伝えられません。
途方に暮れた眞野さんは、弁護士に調査を依頼し、Mの現住所を調べることにしました。東京出入国在留管理局長宛てに照会もしました。費用はすべて眞野さんの自己負担です。
「その結果、Mは出所後、母国であるブラジルに帰国していたことが判明しました。しかし、現地の住所まではわからないというのです。そもそも、民事裁判で判決が確定しているのに、賠償義務を負った外国籍の被告を、なぜ原告に一言の通知もなく帰国させてしまうのか……。現状の法律では何ひとつケアできておらず、あまりに理不尽ではないでしょうか。国として外国人を受け入れるなら、最低限のルールを作ってほしいと強く思います」
■真の「被害者救済」とはなんなのか
国は「犯罪被害者給付金」という制度を作りました。しかし、これは『殺人などの故意の犯罪行為により不慮の死を遂げた犯罪被害者の遺族、または重傷病、もしくは傷害という重大な被害を受けた犯罪被害者』が対象です。眞野さんのように「過失」による事故の遺族は対象ではありません。
「最近、さまざまな自治体で犯罪被害者に対する条例が制定されていますが、自分が当事者となった今、真の被害者支援とはなんなのか、本当に考えさせられます。民事で判決が出ても賠償金を1円も受け取ることができないなど、救済から取り残された被害者は大勢います。日本はもっと被害者支援先進国になるべきです。そのためには北欧諸国に見られるような被害者庁の創設も検討すべきではないでしょうか。日本の犯罪被害者が置かれているこんな状況は、誰かが国に向けて叫び、変えていくしかないと思うのです」
今年で事故から11年。Mの所在地は現在も不明です。
弁護士からは、ブラジルの住所を突き止めるには、莫大な費用がかかるので不可能だと言われています。また、現地へ行って調べることには危険が伴うとも。
しかし、眞野さんは決してあきらめていないと言います。
「私はブラジルへ何度でも出向き、徹底的にMを探し出します。そして、謝罪させるつもりです。もちろん、賠償金など取れないことは覚悟しています。お金が欲しいなどという気持ちは1ミリもありません。ただ、あの日、『一生償う』と約束した彼の誠意が見たい、息子の前で手を合わせてほしい……、それだけです。彼がどう償うのか、見届けたいのです」
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