日本ゲーム産業の父、任天堂・山内溥前社長死去
任天堂前社長で、相談役の山内溥(やまうち・ひろし)氏が19日、肺炎のため死去した。享年85歳。謹んでご冥福をお祈りするとともに、その功績を振り返ってみたい。
日本のゲーム産業は山内溥氏の決断によって興ったと言っていい。
ファミリーコンピュータというと、任天堂が先駆者だったイメージがあるが、じつは後発組だった。1981年から1983年にかけて家庭用ゲーム機は発売ラッシュを迎えた(表1)。国内の玩具メーカー、技術系ベンチャー企業、アメリカの玩具メーカーが多数の機種が投入された。いずれ流行するだろう「テレビに接続するゲーム専用機」新市場の開拓を各社が目指していたのだ。
上村雅之部長が率いる任天堂・開発第二部のメンバーが開発したファミリーコンピュータ。ハード性能とソフトを見て、山内溥氏は「これは売れる」と直感した。一気に普及させるために大量生産による一台あたりのコスト圧縮を決意。100万台(文献によっては300万台とも)の部品を大量発注し、価格は他のライバル機と比べて格安の14,800円におさえた。この英断により、ファミリーコンピュータが市場の覇者となった。ハードが売れればソフトも売れる。ナムコ、ハドソン、コナミ、タイトー、カプコン、エニックス、スクウェアなどがサードパーティとなった。日本のゲームソフト産業の礎は、ファミリーコンピュータ成功とともにつくられたのである。個別のゲーム名を挙げれば『スーパーマリオブラザーズ』も『ドラゴンクエスト』もこの頃に生まれた。ファミリーコンピュータのみならず、ゲームボーイ(89年)、スーパーファミコン(90年)を開発した任天堂は、海外市場でも大成功を収め日本を代表する企業のひとつになった。どの言語圏の国でも「Nintendo」はゲーム機の代名詞となった。
栄光の歴史を築いた任天堂だが、風当たりも同時に厳しくなった。まずは社会批判が起きる。テレビゲームへの偏見が強かった当時は、子供が遊んでばかりいる、目に悪いなどのバッシングが絶えることがなかった。こんな逆風が吹いたとき、山内溥氏の選ぶ道はいつも王道であった。ゲームの健全性を、たとえば広告などでアピールする手法はいくらでもあるが、それは企業がやるべきことの本質ではないと考えていた。企業が顧客からの信頼を得る唯一絶対の方法は、時間がかかっても、良い製品をつくりつづける。このポリシーを守り通した。ソフトの品質はもちろんのこと、付属の印刷物は子供が誤って濡らしてもにじまないインクを使い、ハードは落下試験を繰り返して壊れにくい構造にした。またユーザーサポートでは、不必要にユーザーの非をとがめず、手厚く故障・部品交換の対応を行った。
もうひとつの風当たりはマスコミ。おもに経済マスコミだった。ひとり勝ちした急成長企業への監視の目は厳しかった。たとえば、ライバル機種が2機種登場すれば「三つ巴の戦い」と相対比較をされた。そして「窮地に立つ任天堂」「揺らぐ独占支配」と、任天堂の将来は常にマイナス方向に論じられた。しかし、山内溥氏は競合相手が増えればシェアは低下するという一般論に流されることはなかった。「娯楽の産業は一強皆弱(いっきょうかいじゃく)」が持論だった。類似製品が3つあるから市場が三等分されるようなことはありえない。良い製品だけが生き残ると主張しつづけた。だがいっぽうで「任天堂はエクセレントカンパニー」と持ち上げる記者に対しては、笑顔を浮かべることもなく「娯楽の世界では一寸先は闇」と勝って兜の緒を締める態度を見せた。
山内溥氏はゲーム=娯楽産業と他産業は安易に比較すべきではないと考えていた。一見すると敵に思える敵は恐れるに足らず。一見すると安泰に見えるが危機が訪れることを警戒する。山内溥氏の経営論は、日本のゲーム産業のために特化した独自の経営論だった。したがってどの産業にも当てはまる、普遍的な経営論とは一線を画していた。任天堂が飛躍した後の山内溥氏は、マスコミをはじめとする、にわかゲーム業界ウォッチャーが振り回す俗論と戦うことが多かった。
山内溥氏は人前に出ただけで威光があったが、それは独裁者のイメージとはほど遠いものだった。任天堂社員はもちろんのこと、ゲームの仕事に携わるすべての人が慕った。この感情は父に対する感情に似ている。ときに頑固で厳しいことを言う。しかし、慈しみがあった。これらすべての言動は、ゲームの仕事をする人々、ゲームを買って遊んでくれる人々のためであった。そんな父を目の前にして、人々は精一杯の敬意を払い、頼りたくなった。
ファミリーコンピュータが発売されてからちょうど30年が過ぎた2013年。これも奇遇か、東京ゲームショウ2013の開幕日となる9月19日。日本のゲーム産業を築き上げた、最大の功労者が亡くなった。我らが父は、大きな遺産を託して、次世代を生きる者たちに静かにバトンタッチを行った。