「ひき逃げ死亡事件」が、なぜ不起訴に…。 妻を失った夫が法廷で加害者に放った一言
6月22日、岐阜地裁で言い渡された民事裁判の判決は、各メディアによっていっせいに報じられました。
『不起訴の女性に賠償命じる 民事は車ではねたと認定 岐阜地裁 』(NHK/6.22)
『岐阜のひき逃げ 判決「妻に伝えたい」夫会見 不起訴女性に賠償 地裁 /岐阜』(毎日新聞/6.23)
刑事では「不起訴処分」となったひき逃げ事件が、民事裁判では一転、加害車両を運転していたとされる女性(79)の全面的な過失を認め、約4720万円の賠償を命じたのです。
岐阜地裁の木野村瑛美子裁判官は、判決文にこう明記していました。
『本件事故は被告の一方的過失により惹起されたものである。(中略)捜査機関に対し加害車両を運転した事実を否認し、本訴に至ってもなお、亡紀子に衝突していない旨不合理な供述を繰り返すなど、事故後の態様も悪質である』
■検察の判断と真逆の判決を下した民事の裁判官
刑事と民事で異なる判断が下されることは皆無ではありません。
しかし、今回の場合は悪質な「ひき逃げ」です。しかも被害者は亡くなっています。
このような重大事件で被疑者が「被害者をひいたこと」自体を否認し、検察がその供述を突き崩せず起訴を断念するというケースは、私自身、過去に取材した記憶がありません。
妻の紀子(としこ)さん(当時75)を目の前で亡くしてから6年、岐阜市の岡田外志(そとし)さん(82)は、今回の民事判決を受けてこう語ります。
「岐阜地裁には正しい判断をしていただき本当に嬉しく思います。誰でも交通事故を起こす可能性はあります。しかし、事故を起こしながら被害者を救助せず、その上、『ほかの車が走り去った』と嘘をついて立ち去り、逮捕されてからは否認を続け、まったく誠意が見られない加害者がなぜ不起訴になるのか、納得がいきません」
私自身はこの事件が不起訴になって間もなく連絡をいただき、以来、ずっと経緯を伺ってきました。
発生から6年、いったい何が起こり、ご遺族はどんな思いで向き合ってこられたのか……。
この事件の経緯を振り返ってみたいと思います。
■現場で目撃者を装った加害者
事故が起こったのは、2014年6月12日のことでした。
午後6時ころ、岐阜市内の公園までウォーキングに出かけた岡田さん夫妻は、途中で突然の雷雨に見舞われたため、近くの商業施設でしばらく雨宿りをしました。
岡田さんはその夜のことを振り返ります。
「雨が小降りになったときはもう日が暮れていたため、そのまま帰宅することにしました。自宅の手前まで戻ってきたのは午後7時20分頃だったでしょうか。そのとき、信号のない横断歩道を私より先に渡っていた紀子が、突然、路上に倒れたのです」
岡田さんはその瞬間を見ていませんでしたが、すぐに駆け寄り、うつぶせに倒れている紀子さんを抱き起そうとしました。
「すると、『起こさないで! 今、救急車を呼んだから』という男性の声が聞こえました。頭が真っ白になりながらも、私は『しっかりするんだよ、大丈夫だから!』と声をかけました。紀子はかすかな声でこう言いました。『ごめん、ね……』と」(外志さん)
紀子さんはすぐに救急車で病院に搬送されました。しかし、約6時間後、出血性ショックで息を引き取りました。
救急車を呼んでくれたのは、事故直後に現場を通りかかったドライバーでした。
結局、紀子さんをひいた加害者が誰なのかは、翌日になってもわからず、警察は「ひき逃げ死亡事件」として捜査を開始。紀子さんは司法解剖を受けることになったのです。
「実はこのとき、加害者の女性は離れた場所に自分が運転していたワンボックスカーを停め、歩いて現場に戻ってきていたようです。そして、駆け付けた警察官に『白い車が走っていくのを目撃した』と話し、『用事があるから』と言ってその場を去っていたのです」
目撃者を装っていたこの女性の車の前面には大きな凹みがあり、ワイパーも破損していました。また、血痕も付着していたため、警察は間もなくこの車を押収。
そして、6月18日、女性を自動車運転処罰法違反(過失致死)容疑などで逮捕しました。
しかし、取り調べに対して女性は「傘に当たっただけで、自分は人などひいていない」と一貫して否認。まもなく証拠不十分で釈放されたのです。
■正当な理由もないまま加害者を「不起訴」にした検察
それから1年半後の2016年2月、岡田さんは岐阜地検から届いた通知書に愕然としました。加害者の女性を不起訴処分にしたというのです。
「ひき逃げでの起訴は難しくても、自動車運転過失致死で起訴されるはずだと信じていただけに、この決定は大変意外でした。加害車両の損傷だけでなく、車に付着していた血痕からは妻を轢いた証拠でもあるDNAも検出されています。にも拘わらず、なぜ不起訴なのか……。私は弁護士と共に検察庁に聞きに行きましたが、納得のいく答えは得られませんでした」(岡田さん)
その後、岡田さんは同じ経験をした交通事故遺族の支援も受けながら、名古屋高検、最高検などに説明を求めました。
また、検察審査会にも申し立てをしましたが、2017年、結果的に「不起訴相当」の議決が下されたのです
検察はなぜ起訴することができなかったのか……。
被疑者の車の前で、別の車がすでに紀子さんをひいていたかもしれない、という仮説をくつがえすことが困難だと判断したのでしょうか。
「不起訴」という結果と、検察の姿勢に大きなショックを受けた岡田さんは、しばらく体調を崩すほどでしたが、民事の時効が迫っていたことから、2017年12月、不起訴となった女性を相手に損害賠償請求訴訟を起こしたのでした。
■民事裁判で真実を明らかにするしかなかった
岡田さんは民事裁判で、警察が作成した実況見分調書をはじめ、司法解剖の所見、DNA鑑定などの客観的な捜査資料をもとに、民間の調査会社に調査、鑑定を依頼しました。
そして、この事故は逮捕された女性の車が起こしたものであることを詳細に立証したのです。
数々の証拠から検証をおこなった、株式会社日本交通事故調査機構代表の佐々木尋貴氏は語ります。
「加害者は他の車がひいたかのような供述をしていました。しかし、司法解剖の所見や事故車の損傷状態から、この事故は加害車両1台によるものだということが明らかでした。検察はこれだけの証拠がありながら、なぜ本件の起訴に踏み切れなかったのか。もはや、検察官の資質や気分次第で、無実の人が事件の落としどころとして裁かれたり、裁かれるべき人が不起訴になっていたりするのではないかと感じました」
裁判官は、長年警察官として交通事故捜査に従事した経験を持つ佐々木氏の鑑定意見書を『合理的で、信用できる』とし、被告女性の主張を却下。ひき逃げをした女性に100%の過失があったと認定したのです。
岡田さんの代理人を務めた名古屋南部法律事務所の高森裕司弁護士に、今回の完全勝訴について伺いました。
「裁判官は刑事の証拠を丁寧に拾い上げ、こちらが出した佐々木氏の鑑定結果を全面的に認めてくれました。被告人は『当たっていない』の一点張りでしたが、事故直後の状況についての供述がコロコロと変遷し、実に不合理でした。それだけに民事裁判では反論のしようがなく、その悪質性が結果的に慰謝料にも反映されたのだと思います。検察は民事の結果にはコメントしないと言いながら、刑事事件については適切に対応するとしています。ぜひもう一度、起訴に向けての再捜査を行ってほしいと思います」
実際に、一度不起訴になった刑事事件が再捜査によって起訴されたケースもあります。
『逃げ得を許さない会』の代表として岡田さんを支援してきた名古屋市の秤谷幸恵さんもまた、家族をひき逃げ事件で失った遺族です。
加害者は3度にわたって不起訴処分となりましたが、遺族は前出の高森弁護士とともに高検や最高検に異議申し立てを繰り返し、再捜査に持ち込みました。
結果、加害者の男性は起訴され、有罪となったのです。
「私たちも同じ時期に闘っていたので、岡田さんの苦しみが痛いほどわかりました。検察には物的証拠と今回の民事裁判の結果を真摯に受け止め、正しい判断をしていただきたいと思います」(秤谷さん)
■妻を亡くした夫が、たった一度だけ法廷で加害者に告げたこと
岡田さんが突然の事故で妻の紀子さんを亡くしてから、6年が経ちました。
「加害者」とはこれまで会話を交わしたことがありません。
もちろん、謝罪を受けたこともありません。
しかし、民事裁判の法廷で一度だけ、岡田さんは相手の目を直接見て、言葉を向けたことがあるといいます。
「2020年1月20日、この日は被告への尋問の後、遺族である私にも短い時間でしたが意見陳述の時間が与えられました。法廷でも嘘の証言を繰り返す姿に、憎しみを通り越して哀れみさえ感じていた私は、証言台から被告の方に視線を向けて、一言、こう告げました。『あなたは哀れである……』と」
裁判官からの静止はありませんでした。
怒りを押し殺し、淡々と、振り絞るように発したその言葉を、加害者はどう受け止めたでしょうか。
民事の判決はまだ確定していません。相手側が控訴してくる可能性は十分にあるでしょう。
しかし、岡田さんの真の目的は、決して損害賠償を受けることではないと言います。
「妻、紀子はもういません。笑顔を見ることも、小さなことで喧嘩することも、彼女の作ったおいしい料理を食べることも、老後の二人の時間を楽しむことも叶わなくなりました。それなのに、嘘をついた一方の当事者がなんのお咎めもなく、今日も普通に日常を過ごしているのは不条理です。私たち家族の望みは、刑事裁判で正しい判決がなされることです。今回の民事裁判の結果を検察庁に伝え、再度、被疑者の起訴を目指して働きかけていく所存です」