1人の愛好家が巨大アートを動かした! 名古屋・中日ビルのモザイク画が存続へ
名古屋のランドマークが取り壊し・建て替えへ
中日ビル(正式名称=中部日本ビルディング)は1966(昭和41)年竣工。名古屋の中心部・栄の一等地に、飲食店やショップ、文化センター、劇場などを集めた地上12階・地下4階の多目的施設として建設されました。質実剛健な威容はパッと目を引くような派手さはありませんが、地下街と直結して利便性がよく、屋上では回転展望レストランやビアガーデンがにぎわいを生み、長く市民に親しまれてきました。
しかし、完成から半世紀以上が経ち、現ビルは今年3月いっぱいで閉館し、建て替えられることが決まっています。惜しむ声は尽きませんが、その一方でうれしいニュースも飛び込んできました。ビルのシンボルとしてエントランスホールの天井を飾ってきたモザイク画が存続される方針であることが発表されたのです。
“モザイク画の宝庫”名古屋を代表する傑作
モザイク(壁)画はタイルや大理石を材料にし、ビルの壁面などに設置されます。高度成長期には、建築の装飾として積極的に活用されました。名古屋は周辺にタイルをつくる陶磁器産地が多く、また岐阜に大理石輸入業者があったことから原料を調達しやすく、街中の商業施設、事務所、地下鉄通路などに数多くの作品がつくられました。さらに、東京や大阪などと比べて、バブル期以降の再開発の波がゆるやかだったため、モザイク画のある建造物が取り壊されることなく現在にいたるまで多く残されてきました。
そんな“モザイク画の宝庫”である名古屋においても、中日ビルの作品は個性あふれる傑作と位置づけられます。この「夜空の饗宴」はベネチアングラスやタイル、大理石の小片約200万個を貼り合わせた10×20mの巨大作品。岐阜県大垣市出身の洋画家・矢橋六郎(故人)が手がけました。これほどのスケールのモザイク画が天井に設置されているケースは国内ではきわめて珍しく、なおかつビルの取り壊し後も残されることもあまり前例がありません。
そして、この異例の措置の裏には、1人の主婦の想いが少なからぬ影響をおよぼしていたのです。
1人の愛好家が“絶滅危惧種”に光を当てた
愛知県豊田市在住のモザイク愛好家・森上千穂さんがその人。彼女は、美術や建築の専門家でも行政やマスコミの関係者でもなく、いってみれば“普通の主婦”。そんな彼女がモザイクアートにハマったのは、“絶滅危惧種”的存在であることを思い知らされたのがきっかけでした。
「タイルの業界誌でモザイクアートを知ったのは6年ほど前。興味を持ってあちこちに見に行くようになりました。そんな頃に旧・大名古屋ビルヂングにも矢橋六郎作の壁画があったと知ったのですが、2012年に既にビルは取り壊されてしまっていて、見ることがかなわなかった(同作品は現在の大名古屋ビルヂングに一部移設)。それがきっかけで、“いつまでもあるとは限らないんだ。存在するうちに見ておかなければ”という思いが強くなり、いっそう現地へ足を運ぶようになったと同時に、古い記録を調べたり、関係者を訪ねるようにもなったんです」(森上さん)
やがて、1人で鑑賞するだけでなく、街中のモザイク画を見学するツアーのガイドも務めるようになります。「2014年の暮れに大ナゴヤ大学というNPO団体の授業としてモザイク壁画めぐりを行ったのが最初。その後は名古屋市が毎年秋に主催している文化事業『やっとかめ文化祭』でもツアーを開催したり、合わせて7~8回、毎回20名前後を案内してきました」(森上さん)
こうした活動は徐々にメディアにも取り上げられるようになり、モザイク画、そして「夜空の饗宴」に対する関心はじわじわと高まっていったのです。
ビル関係者も見過ごしていたモザイク画の価値
それ以前は、当のビルの関係者ですら天井のモザイク画に対して強い関心は抱いていなかったのだそう。
「あって当たり前の存在で、それほど価値のあるものだという意識はありませんでした」と明かすのは中日ビル・新中日ビル準備室長の市村俊光さん。利用者もまた同様で、「エントランスホールは待ち合わせ場所としてごった返すほどのこともありましたが、モザイク画を気に留めて見上げている方はかつてはほとんどいませんでした」(市村さん)といいます。派手な彩色で抽象的な図案も大胆でありながら、建物にとけ込んで見る者に意識させない。これは建築の意匠として役割を果たしている証でしょう。
モザイク画の魅力を多くの人たちに広める活動を続けてきた森上さんですが、何がなんでも残したい、とまでは考えていなかったといいます。
「モザイク画はビルと運命共同体。ビルが古くなって取り壊されることになったら一緒になくなってしまうのは避けられず、そのはかなさも魅力だと考えるようにしてきました。中日ビルの天井画も残せるなんて思ってもいませんでしたし、残すために自分から何か具体的に働きかけようとも考えてはいませんでした」(森上さん)。
それでも、「森上さんの活動が存続に向けての後押しになったことは間違いない」と中日ビルの市村さんはいいます。
「ビルの建て替え計画が持ち上がった時点で、『レガシーの継承』はテーマでした。当然、『夜空の饗宴』は常に議論の対象でしたが、解体を担当するゼネコンも扱いには頭を悩ませていました。分割して一部だけ残す案もありましたが、それでは意味がない。全面的に存続しようという方針が決まったのはつい最近のこと。森上さんが作品の価値に光を当ててくれていなかったら、違う結論が出ていたかもしれません」(市村さん)
テレビ塔、百貨店壁画など、保存の気運高まる昭和の文化遺産
近年、名古屋では昭和の建造物の価値を見直し、守っていこうとする動きが少しずつ増えてきたように感じます。1954(昭和29)年築の名古屋テレビ塔は2011年の完全デジタル化にともなって電波塔の役目を終え、一時は撤去案も浮上しましたが、街のシンボルとして今も健在。今年初めから1年半のリニューアル工事が始まり、2020年夏にはホテルも入居して再オープンする予定となっています。
昨年6月に閉店した丸栄百貨店にあった巨大なモザイク壁画(1953=昭和28年)も、希望者に譲渡して存続させる方針であることがつい先ごろ発表されました。東山動植物園のコンクリート製恐竜(1938=昭和13年)も4年半をかけて修復作業が行われ、2017年から公開が再開されています。
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街並みや建物などを保存するのは決して容易なことではありません。様々な制限が課せられ、移設や保守の費用も馬鹿にならず、そういったマイナス面を鑑みずに「文化を守れ」というだけでは共感も得られません。その点、中日ビルのモザイク画保存計画は、1人の愛好者が自分なりのやり方で思いを発信し、結果として街の文化の継承につながった非常に幸福な事例といえるでしょう。
願わくば、2027年のリニア開業に向けた名古屋駅再開発にともなって去就が未定とされているナナちゃん人形についても、愛着を持つ市民1人1人の声によって守られるようになることを期待します…というよりも、私も森上さんにならって名古屋のシンボルを守れるように思いを発信していきたいと思います。
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(写真は、モザイク画制作風景のみ中日ビル提供、他は筆者撮影)