世界の「報道の自由」度はいかなる推移を示しているのか
国際NGOフリーダム・ハウス(Freedom House)は2016年4月、「報道の自由度(Freedom of the Press)」に関する最新報告書「Freedom of the Press 2016」を発表した。それによると世界でもっとも報道の自由度が高い国はノルウェーで、続いてベルギー・フィンランド・オランダなど、欧州諸国が続く形となった。日本は国数的には44位で、ドミニカや台湾と同点となり、「報道の自由がある」と評価されている(発表リリース:Freedom of the Press 2016: The Battle for the Dominant Message)。
「報道の自由度」は1980年分から調査と結果の公開を開始しているが、具体的なスコア(値)まで含めた内容が公開され公式ウェブ上で容易に取得できるのは1993年分以降。また社会環境の変化に応じて値の計算方法を微調整することもあり、現在の基準は2001年分以降の適用となっている。今回は具体的な値を確認可能な1993年以降の内容について見ていくことにする。
フリーダム・ハウス(Freedom House)の行動目的や背景、「報道の自由度」そのもののあらまし、直近分の動向に関しては先行記事「日本は44位、報道の自由がある国判定…報道の自由度最新情報」を参照のこと。
まずは世界全体としての「報道の自由度」の動向。100点がもっとも報道の上では不自由、ゼロ点がもっとも自由。30点以下は自由、31~60点がやや自由、61点以上が不自由と大別化されているが、その仕切り分けで分別された国の数の比率と、単純に値の合計を国数で割った平均値。世界全体として報道の自由がどのような状況なのかを把握できる。
2001年分以降とそれより前においては細かな基準の違いがある(さらに1993年分から1995年分、1996年分から2000年分まででも細かな変更が成されている)ことから、完全な連続性があるわけではないが、大よそ世界全体としての報道の自由度の動きを確認できる。今世紀に入ってから報道の自由は少しずつ厳しさを増しているように見えるが、指標的にはせいぜい2から3点分程度。不自由な国の比率はほとんど変わらず(あえていえば数%ポイントほど減っていると見ることもできるが)、自由な国が減りやや自由な国が増えているように見受けられる。
続いて具体的に各国における報道の自由度の推移。日本の新聞通信調査会が先日発表した「諸外国における対日メディア世論調査(2016年調査)」を参考に、対象国をアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本、中国、韓国、タイに対象国を絞ることにする。
このグラフは値が大きいほど報道の自由が束縛されている、厳しくなっていることを意味しているが、最初の世界全体の平均値の動向からも分かる通り、各国においても大よそ報道の自由が損なわれつつあるとの判断が下されている。
とはいえその内情はさまざま。欧米ではアメリカ合衆国やドイツがほぼ一様に少しずつ値を増やしているのに対し、イギリスやフランスでは前世紀末にかけて値が減退(=報道の自由がより強化されている)した流れも確認される。しかしそれも今世紀に入ってからは他国と同様に少しずつ上昇に転じている。特にフランスでは直近の1、2年で大きな上昇が生じているのが目に留まる(ドイツもそれに近いが)。
ロシアでは2008年ぐらいまで多少のぶれを見せながらも他国と比べて大きな上昇の動きにあった。つまりそれだけ報道の自由に関して縛りが厳しくなっていったと判断されている。2009年辺りからはようやく上昇にもストップがかかるようになったが、値は80強。当然「不自由」の評価を受けている。
アジア地域では韓国がほぼ横ばい、2010年あたりから少々増加に。タイでは今世紀に入ってからは大きな上昇傾向にあり、その動きは直近でも変わらない。前世紀末では「自由」判定を受ける年もあったほどだったが、今では中国に近づくほどの「不自由」の中にある。
その中国だが前世紀からすでに「不自由」判定の80台。今世紀初頭にかけてやや値を減らす動きも見られたが、再び上昇。この数年ではさらに値を底上げし、実質的に報道に関しては不自由な国のままで移行している。
日本は20前後を行き来したまま。2010年辺りからはいくぶん値を上げる動きを見せているが、これは他国と同じような風潮の中の挙動で、特段変わったものでは無い。
最後に日本における報道の自由度の推移を、大カテゴリの区分別で見ていく。
日本の「報道の自由」に係わる障害は経済的な方面における変化はほとんどなく、政治面と経済面が少しずつ増加していることが分かる。数ポイントは誤差の範囲であるが、2004年と2012年中に生じた2ポイントの増加はやや気になるところ。
これらの値は唯一無比のものでは無い。元々「自由」との概念が方程式のように絶対不動の基準として存在しているわけではないのだから、判断基準が変われば評価も変化する。報道の自由が制限された方が、自国の利益に叶うと判断している国もあるだろう。
さらに「報道」に携わる人々、さらには報道そのものの内容の質の変化も考慮に入れねばならない。公明正大の大義、存在意義を忘れ、あるいはそのそぶりを見せ、実態として特定の主義主張に傾注した上での報道は、プロパガンダと何ら変わりはない。報道を構成するメディアへの信頼度が世界各国で低迷しており、本来期待される、あるべき姿での役割を果たしているとは認識されていない、信頼されていない向きがあるのは否定できない。
他方、「報道」と呼ばれるものの当事者などの思惑を極力排し、自由の監視と保護を目的として第三者的な立場から長年に渡り精査を続け、社会環境の変化に応じて基準も柔軟に修正している今指標は、それなりの価値と有意義さを持っているのも事実ではある。
■関連記事: