職場における「正義」とは何か〜社会は民主主義だが、会社はそうではない〜
■若者の正義感は社会の原動力
我々中高年世代はもうとうの昔に汚れちまったので、世の中というものは「白か黒」で答えられるようなものではなく、ほとんどが「グレー」であることをわかっているのですが、理想に燃える20代の若者は世の中には「白」が存在していると思っていますし、実現できると思っています。
私は何もそれを「青臭い世間知らず」で「だからダメなんだ」「早くオトナになって、こっち側へ来いよ」などと言うつもりはまったくありません。若者のそういう潔癖さや正義感、理想こそが社会を改革していく最も大きな原動力となりうると思うからです。むしろ、中高年達に巻き込まれてしまって、妙に分別くさくならないで欲しいと切に願います。
■ただ、「まあまあウザい」のは事実
しかしながら……矛盾するようですが、若者のそういう杓子定規な正義感はまあまあウザい(いつも、我々中高年側がウザいウザい言われているので、これみよがしに言ってみました)。いや、結構ウザい。もちろん、本当に違法であれば、これはウザいとか言っていてはダメです。若者が完全に正しい。それをウザいと言っているおじさん、おばさんは即刻退場すべきだと思います。
ブラック企業(黒=悪というのはポリティカリー・コレクト的にはNGですが、もう一般化してしまっているのでここでは使います)の定義はよく議論になりますが、「これは絶対にブラック」という最低ラインは、この「違法」というところと、「誰か(お客様、社会、社員、パートナー会社等へ)に深刻な嘘をつかなくてはならない」ということだと私は思っています。
しかし、たいていはそこまではいかないケースがほとんどでしょう。違法ではなく、倫理観の問題レベルぐらいで。法律は厳密ですが、倫理は曖昧です。解釈の余地がありますし、価値観で結果が変わります。それなのに、最も厳格なレベルで、「それはおかしい」と主張してくる若手はなかなか手強いです。
■手を汚していないからキレイごとが言える
例えば、もう時効でしょうから、人事を生業としてきた私のケースを、恥ずかしながらふたつお話しします。ひとつは、ある新人が面接評定表にある「A・B・C・X」という4段階評価の「X」に異議を唱えてきたケースです。もちろん「X」とは「未知数のエックス」とかではなく、「バツ」の意味です。
面接評価がAからCであれば次に進む可能性があったのですが、「X」というのは「ここで選考終了」ということで、わかりやすく「バツ」としていました。新人は、「応募者はバツなどではなく、単に自社に合わなかっただけであり、そんな言い方はおかしいと思う」と素朴で純粋な主張をしてきました。
今ならまったくもってその通りと思うのですが、その時の私は「XをDに変えたら君は気が済むのか。別に言うことはわかるが(実際、後で変えた)、自社に入りたいと熱望している人を不合格にするという重さから逃れられる、免罪されるとでも思うのか。この偽善者が!」とまで言ってしまいました。
すがりつくように入社を希望している人を、私は最終面接官として何人も落としてきました。正直、今でもものすごく重い罪悪感を感じています。だから、「お前はまだ罪悪感を持つような責任ある仕事をしていないから、手を汚していないからそんなことが言えるんだ」と思ってしまったのです。
しかも、私も新人の頃、実は「X」って嫌だなと思っていたのが、今はもう変わってしまったことに気づき、その若者の純粋さに嫉妬してしまったのだと思います。海よりも深く反省しています。そのときの新人(もう立派な投資会社の社長です)にはこのネタで今でも責められているので、許してください。
■恣意的な判断はアンフェアだと思う
ふたつ目は、適性検査の選考基準をいじった時に、新人が意見をしてきた事件です。最初に設定していた選考基準だと、応募者がどんどん落ちていってしまい、このままだと採用目標に達しないというシミュレーションが出たため、採用活動期間の途中から選考基準を緩めてもう少し合格を出すようにしました。その判断に不服のあった新人2人に私は呼び出され、小部屋で異議を申し立てられました。「不公平だと思います」と。
私は、「もちろん最初の方の厳しい基準で落ちた応募者には申し訳なく思うが、(公務員等は違って)企業には採用の自由があり、(差別的なものとかでなければ)どんな採用基準で採用をしたって問題はない。今回は、期中の変更ということで不公平を感じたのかもしれないが、そもそも毎年基準は変わっている。昨年よりも今年は景気がよく売り手市場なので採用基準は緩いなんてことはふつうにある。それも不公平だと思うか? 同じことじゃないのか?」と言いました。この件の是非はともかく、若者のよくある正義感を示していると思います。
■「何事も公正なルールに基づいて」という潔癖さ
それは、「法治」ではなく「人治」だとアンフェアだと思うということです。ルールのない中で、権限を持っている人が勝手にいろいろ判断すること自体に嫌悪感を抱くようです。似たような例を挙げると、何かを発注する際に広くあまねく公募して、入札を受け入れて、あらかじめ定められた基準に基づいて発注先を決めないと、アンフェアに思う人が多い。
無論、そこからリベートなどをもらっていたりすれば、仲間や経営、株主に対する裏切りであり、違法です。また、上場会社は公共性が高いため、公共事業に近いレベルのフェアさ(?)が求められることもよくあります。しかし、基本的には、公共事業であれば大きい案件の随意契約は問題でも、民間企業が信頼できる知人の会社に入札なしに指名で発注してもあまり問題はありません。
しかし、若者は、あまりいい気はしないようです。ほかにも、先輩後輩のネットワークで採用活動をすることに不公平感を持ったり、上司に気に入られた人が早い昇進をすることにも(好印象をもたらしたことが、正当な成果によるものであっても)ブラックな感情を持ったりします。若者は「人治国家」は嫌なのです。
■社会は民主主義だが、会社はそうでないことを知らない
さて、若者の正義感について、例を挙げながらお話ししてきましたが、冒頭でも申し上げたように、若者のそういう感覚を否定するつもりはありません。しかし、これはイデオロギーとかではなく事実として申し上げますが、「社会は民主主義だが、会社はそうではない」ということです。
会社は、株主から見れば民主主義的かもしれませんが、社員は会社に方向性を決める選挙に参加する一票を持っていないので、そういう点では社員には会社は民主主義とは思えないでしょう。株主から信任を得てしまえば、次の選挙(株主総会)までは、経営者は社員から見ればある意味独裁者です(無論、本当に独裁的に振る舞ったら、今時の組織運営はなかなかうまくはいかないでしょうが)。
学生まではこの世の中は民主主義であると習ってきたので、会社が今のところの仕組みでは残念ながらそうでないことに最初は気づかないのでしょう。
個別具体的な案件では、それぞれに正義感の根拠があるのだと思いますが、多くの案件の裏には、このように会社というもののあり様、物事の決まり方を理解できていないために、義憤を感じることが多いのではないかと私は思います。
それをちゃんと説明せずに押さえつけていてはせっかくの正義感の持つエネルギーまで潰してしまいますので、ぜひきちんとこの辺りを説明してあげて欲しいと思います。
※OCEANSにて、若者のマネジメントについてコラムを書いています。ぜひこちらもご覧ください。