高倉健さん養女が明かす…5回目の命日で感じた複雑な思い
映画俳優・高倉健さんが亡くなった後、突如その存在が明らかになった“養女”の小田貴月(おだ・たか)さん。これまで世間に出ることなく沈黙を守り、5年という歳月が過ぎた。そんな貴月さんが、11月10日の健さんの命日を前に著書を上梓した。「なぜ“妻”ではないのだろう」、「なぜ、今なんだろう」。会って話を聞くことができた。
―11月10日は、高倉健さんの5回目の命日でしたね。
穏やかな秋晴れの一日、心静かに過ごしました。色づき始めた木々の梢を野鳥が渡る姿に、ふと涙があふれました。いつも高倉と見ていた風景だったからかもしれません。
自宅で1人過ごしている時でも、ふとした瞬間に高倉の存在を感じることもあります。まさに、同行二人ですね。それでも、食べてくれる人がいない食卓は、堪(こた)えます。スーパーの店先に並んだ、赤や黄色、オレンジ色の色鮮やかなパプリカを見たりすると、その時作っていた献立が浮かんできて、近寄れなくなることがたびたびありました。
5年経った今も、仕事として映像チェックする以外に、高倉の声を聞くことができません。
―その命日を前に上梓されたのが「高倉健、その愛。」。
高倉からの宿題でした。亡くなる2年くらい前、まったく体調に問題ない時のことでしたが、何の脈絡もなしに、「僕は、貴(たかし)より先に死ぬよ、多分…。そしたら僕のこと、書き残してね」と言われました(注:高倉さんは、貴月さんのことを当時「たかし」と呼んでいた)。戸惑いながらも「はい、分かりました」といつものように返事をしました。
高倉が亡くなった後、相続手続きの確認作業のため、日本各地の高倉が契約をしていた倉庫に足を運んだのですが、膨大な量の段ボールに、58年間の俳優人生の貴重な資料を残していたことが分かりました。
私は、現役を貫いた“映画俳優・高倉健”を、ありのままに書こうと時間をかけました。高倉がいかに全力で仕事に向き合おうとしたか、どれだけもがいたか、決して順風満帆ではなかったその人生を、高倉の思いを蘇らせながら書き残せたら、私の役目が果たせるのではないかと思ったんです。読んでくださるファンの方々に、高倉が語りかけているような雰囲気で。
参考にさせていただいたのは、高倉から「これ読んでおいて」と渡された『愛と哀しみのルフラン』(講談社刊)という本。作詞家でもいらした岩谷時子さんが、女優・越路吹雪さんのマネジャーとして、日常生活にも寄り添った心のひだを記したものです。
―健さんとはいつ、どういう出会いだったのでしょうか。
1996年、香港のホテルの中華料理店です。高倉は、中国で開かれた自著の中国語版出版記念会に出席した帰り、いつものように香港でおいしいご飯を食べて帰ろうとしていたところだったと後に聞きました。私は同じ日、女性誌の連載のためにそのホテルを取材していたのですが、ホテルの担当者にご案内いただいたレストランで偶然会いました。
その後、私がその時取材していた雑誌を送ったことがきっかけで、文通が始まりました。1年ほど経った頃、衛星放送の取材で3週間ぐらいイランに行く仕事をいただき、高倉に手紙で知らせたところ、返事に「イランについて話があります」と携帯電話の番号が書かれていたので、電話をしました。
「自分は『ゴルゴ13』の撮影でイランに行ったことがありますが、女性には日本と違う制約があります。くれぐれも気をつけてください」と言われ、行っている間にも私の想像を超える心配をしてくれました。その事で、心の距離が縮まったと思います。
―貴月さんに結婚を望むお気持ちは?
高倉は一度結婚し、離婚をしました。その時に「本当に好きだった。なのに紙一枚で離婚という結果になって…。あの書類は、どんな意味があるんだろう」と。それを聞いて、形式的な書類は高倉には意味を持たないことを感じ取りました。高倉健は、私にとって規格外のスケールの持ち主。「この方が喜ぶ姿を見ることは、私がしてきた仕事以上に有意義なことかもしれない」と思えました。
―2人で外出することはありましたか?
食事も旅も一度もありませんでした。「僕はプライベートで目立ちたくないんです」と言っていましたので…。ですから、高倉と私のことを知っていたのは、私の母と事務所の人間1人だけです。あの方が輝ける存在でい続けるための縁の下の力持ち、黒子。それが私の役目なのかなと思えたので、それまでのあらゆる関係を整理しました。
―どのタイミングで養女に?
2013年5月です。その半年前に私の母親が脳梗塞で倒れたんです。「書類は必要ない」とは言ってはいたものの、親族じゃないと病状の説明を受けることができないことに、この時初めて高倉は気がつきました。
そこで高倉自身が年齢を考えた時、「書類を出しておく必要はあるかな」と。そうなると、妻か養女になるわけですが、私がすべきことに変わりはないので、高倉にその判断を委ねました。書類は諸刃の剣。万が一、情報が漏れた時のため、比較的反応が穏やかであろう養女になりました。
もし書類の種類に、妻、養女、母という選択肢があったら、母だったと思いますよ。「貴は、僕のお母さんだよね」と真面目な顔で言っていましたから。
―素顔の高倉健さん…(本名の)小田剛一さんはどんな方でしたか?
「僕はもう高倉健なんだよね」が、紛れもない高倉の言葉。高倉健はこう考える、こうするっていうのが、本人の思い。亡くなるまで、高倉健でした。だから家の中でもダラダラすることはなかったです。もちろん、外にいるよりはリラックスできていたと思います。私は存在しますけど、存在しないような透明人間的感覚ですね。
普段は気持ちをアップさせるために、いろいろな曲を聴いて、エネルギーに変えるところがあったのですが、ある時、北島三郎さんの「風雪ながれ旅」を聴きながら気分が高まったんでしょうね。“なんちゃって日本舞踊”を踊りながら、「僕はね、養成所では『見学しててください』って言われた落ちこぼれなんだよ。でもね、その後、着流しが似合う俳優って言われたこともあるんだから、運だよな」って話していました。
ユニークだったのが、“死んだふり”です。どうしてあんな格好ができるのかっていうくらいソファの上で手足をひねって、すごい形相で死んだふりを続けているんです。私のリアクションを待ってるんですけど、わざと気付かないふりをしていたら「疲れるから、早く気がつけよ」って2人で大笑いしたこともありました。
俳優は魅せる職業という信念があって、入院中でさえ、病室でトレーナーから筋肉トレーニングを受け続けていました。
―高倉さんの異変に気がついたのは貴月さんですか?
はい。「僕は食べ残すのが嫌」と言われたので、お腹の空き具合と相談して、毎夕8品くらいを作っていました。2014年の元日に、いつものように「お餅は何個召し上がりますか?」と聞いてから出しましたが、初めて残したんです。「何か味がおかしかったですか?」と聞くと、「とってもおいしいんだけど入らないんだ。残していい?」って言われて、それが続きました。
スケジュールの決まっていた仕事もあったので、「この状況はいつもと違います。分かりますよね?」と言いました。でも本人は「いや風邪だから」「いや風邪じゃないです。だから、私には治せません。病院に行ってください」って、あれこれ説得しているうちに、涙がぽろっとこぼれてしまったんです。
そうしたら「泣いて頼むって、珍しいよね。そこまで貴が頼むんだったら行ってやるよ」と検査に応じてくれましたが、担当医から即日入院と言われた時、家での抵抗は何だったんでしょうっていうくらい「はい、分かりました。僕は決まっている仕事がありますから、先生治してください」って。患者としてはもっとも模範的な素直な返事だったと思います。
日ごろから高倉は「僕は、人の弱っている姿を見たいとも思わないし、見られたくもない」と強い意志を持っていましたので、それだけは何としても守り通そうと思いました。100日後寛解となり、CMには出演できました。
闘病中、弱音は一切漏らしませんでしたが、「僕はこの病気で死ぬのかな」と他人事のように話すこともありました。私には答えが見つからず、黙って笑顔を返しました。「どなたか会いたい方はいますか?」と何度も聞きましたが、そのたびに「貴がいればいい」と言われ、その覚悟のもと、1人で看取らせていただきました。
―健さんが亡くなった後、家を建て替えたり、お墓を処分されましたね。
それが高倉の遺志でした。高倉から「僕が亡くなった後は頼むよ」とさまざまなことを申しつかっていました。高倉はプライベートな部分、とりわけ家のありようを他人に見られることを嫌いましたので、高倉の希望どおり封印しました。
―貴月さんにとって高倉さんはどんな存在でしたか?
“人間遺産”でしょうか。亡くなる2ヵ月前、「ちょっと書くね」と言って「僕の人生で一番、うれしかったのは貴と出逢ったこと 小田剛一」と書いてくれました。あのような方にはもう二度と出会えないでしょうし、私の生き方の指針になっております。
■インタビュー後記
貴月さんの存在、生き方に興味があったので、インタビューが決まった時はうれしかったです。そして実際にお会いして、「上品できれいな方だな」と思いました。貴月さんは、健さんの話をしだすと止まりません。まるできのう健さんからその話を聞いたばかりのように、楽しそうに笑っていたかと思うと、闘病の話では涙が頬をつたう…。貴月さんと話をしていたら、私にとって遠い映画スターだった健さんが、なんだか少しだけ身近に感じられ、健さんの映画をもう一度観たいと思いました。
■小田貴月(おだ・たか)
1964年、東京都生まれ。女優を経て、海外のホテルを紹介する番組のディレクター、プロデューサーに。96年に香港で高倉健さんと出会う。2013年、高倉さんの養女に。現在、高倉プロモーション代表取締役。2019年10月30日に文藝春秋より「高倉健、その愛。」を上梓した。