いざとなってからの「人生会議」で何がマズイのか 人生会議をめぐる議論で緩和ケア医が考えたこと
人生会議はACPかADか、それが問題だ
発表から、批判、撤回、批判への批判……とめまぐるしい動きがあった人生会議のポスターです。
その中で複数指摘があったのは、今回のポスターの性格を鑑みると、厚生労働省が人生会議と愛称をつけたものはACP(アドバンス・ケア・プランニング)というよりもAD(アドバンス・ディレクティブ)つまり旧来の事前指示に近いのではないかというものです。
一般の皆さんは、ACPやADなどと出てきても、何のことやら……と思われるかもしれません。
歴史を紐解くと、まず出てきたのはADです。近いものに文章で表すリビングウィルがあります。ADとは「将来自らが判断能力を失う事態を 想定して、自分に行われる医療行為に対する意向について事前に意思表示すること」です。
米国ではこのAD(事前指示)が推進されてきたのですが、その効果をみたSUPPORT研究では期待はずれの結果となりました。
結局、単純な「これはいる・いらない」式の指示だけでは、現場の複雑な医療状況には対応できず、医療者とのコミュニケーションや本人へのメリットも不十分だったのです。
そこで「より早くから」「繰り返し」「個人の価値観、人生の目標、将来の医療に関する好みを理解し共有すること」であるACPが勧められるようになってきたのです。
これは、指示書の作成や、文章にまとめるという「結果」を優先する立場から、話し合うプロセス重視に転換した、ということでもあります。
一度でも終末期医療の現場を経験すればわかりますように、そこには絶対の正解はなく、難しい決断ばかりで、しかも命に関係するものです。事後にも「あの決断が正しかったのか」と思い悩むご家族はたくさんいらっしゃいます。
その時、本人と十分相談を重ねて、皆で決断したという実感が持てることが、結果のいかんを問わずに納得につながるのです。
考えて相談して決めた、ということが大切なのです。
そしてそれは、ご家族の立場だけではなく、当然本人にとってもそうですし、医療者にとってもそうなのです。
私も従事する緩和ケアはACPがその内容に含まれるなど、プロセスを大切にしたアプローチです。専門家に限らず、緩和ケアの視座を持った医療者に関わってもらうことは、納得のいくプロセスを踏む上での有効な手段の一つと言えるでしょう。
ACPはプロセス重視なのだが、ポスター作成経緯は…
さて、今回のポスターは賛否両論で、
・結果的に話題になったので良し。費用対効果もあった
という賛成の立場もあれば、
・相当数の当事者に心理的な負担をかけてまでインパクトを狙うべきだったのか
と疑問を呈する立場もあります。
確かに、インパクトを中心に考えれば前者の考えもあるでしょう。
ただ述べてきたように、皮肉にも、ACPこそ「プロセス重視」の事柄なのです。
いち早く本件を取り上げた記事Buzzfeed Japanの岩永直子さんの記事【「患者にも家族にも配慮がない」「誤解を招く」 厚労省の「人生会議」PRポスターに患者ら猛反発】にはこうあります。
これこそ、外部委員等を交えて丁寧に発信してゆく事柄だったのではないかと考えます。
厚生労働省が、ポスターの送付を一度見送ったことを批判する意見もありますが、一度踏みとどまって様々な考えを取りまとめ、より良い伝え方を考えてゆこうとする点に関しては良いと感じました。
価値観が多様化する現在、確かに万人に納得のいくものを作れないのは事実です。
一方で、私も事後に何人もの患者さんから「あれを見るのはつらい」と声を頂戴しました。その数は決して少数とも言えず、それを考慮せずに、プロセスよりも結果を求めるのは良いこととは言えないでしょう。
そしてそれは次の話にもつながります。
実質的なADが人生会議の名のもとに強いられる懸念
2016年に大橋巨泉さんが亡くなった際、在宅医とのやり取りが大きく報じられました。
実際に現場をみていないので、やり取りの真偽はわかりません。
私も経験することですが、臨床の現場では、言っていないことがそのように捉えられることすらあり、感じ方は人それぞれだからです。そのため、誰への批判でもないことはまず明記します。
一方で、それを話し合う背景に関しての説明を欠いての「どこで死にたいですか?」等の唐突な質問や、ADもどきのアンケートをACPと考えている等のケースが様々なところで報告されています。
ここまで読んでくださった皆さんはわかると思いますが、これは丁寧に話し合うプロセスというより、ADを確認することです。
例えば「これからどのようにお過ごしになることを考えていますか?」「家で何かされたいことや、これから行うことを考えているものはありますか?」という質問だったならば、ACPのアプローチとなったでしょう。
ACPは繰り返し行うものであり、まずは周囲の方と話し合って考えを深め、そして医療者とも共有することであり、特別な機会に行わずとも、普段の会話や診療で積極的に話題に出して共有してゆくのも一つの方法なのです。
前回の記事のように、生命に関わる病気が進んでいる方の場合は、メリットが比較的はっきりしています。
現状の所、健康な人がそれを行うことの効用ははっきりしていないところがありますが、ただ論文になっていない良いこともまたあるのは事実であり、また海外の研究だけでは何とも言えないと考えられます。
逆に「いざという時のことを話し合おう」というやり方では構えられてしまうケースもありますから、気軽に話し合えるようになること、また話し合いを重ねるそのプロセスが大切だと考えられます。
このような事柄は、死が迫った時期は一般にまとまって冷静に話しにくいものです。根治することが難しい病気となった際は早めから、それを行ってゆくことが肝要でしょう。
総論では賛成でも状況次第では考えづらい・やりづらい場合も
一方で「いざという時」のことを考えねばならないが、今は考えたくない。そのような気持ちの患者さんも少なくありません。
人の気持ちというものは揺れるものですし、それが当然です。
その時にあの絵面を見て「そうだ考えねばならない」と思う方もいると同時に、考えたくない不安な時期に突然「死」を提示されて、負担を感じる方がいることは、がん等の患者さんと伴走している立場からは感じられます。
しかし「考えなくちゃいけない人が、何を目を背けているんだよ」等の意見をみて、やはりまだ病者の立場や苦悩、考えていることなどが、広く知られているには至っていないことを痛感しました。
「自分はこうだから、そうではない考え方をするのはおかしい」そのような言葉は力を持ちますし、インターネットでも広がります。しかしそれが蔓延すれば「自分の気持ちが理解してもらえない」と溝を感じることが増えるでしょう。それは良いこととは言えません。
一方で「患者の立場だったら嫌だろうな」「配慮が必要だったと思う」という発信も複数見出すことができ、健康だからといって決してその立場に思いを馳せられないわけではなく、このように一度視野を当事者のほうに移してものを考えること、発信するということが、成熟した社会においては重要なことなのではないかと感じた次第です。
まとめ
・人生会議という言葉が指し示すものは揺れている
・結果を出すことではなく、話し合いを重ねて共有するプロセスが大切
・立場により違う感じ方に思いを馳せる人が増えることは断絶を防ぐ
今回の一連の出来事を通して筆者が感じたことはこのようになります。
自分の価値観に耳を傾けてくれる医師や医療者は必ずいます。
まずはかかりつけ医などに「人生会議」について話してみてはいかがでしょうか。