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真夜中のVゴール。ジョホールバルの歓喜――1997年11月16日

川端康生フリーライター
(写真:岡沢克郎/アフロ)

<極私的スポーツダイアリ―>

1997年11月16日深夜、ジョホールバルの歓喜

 中田英寿がドリブルを始めたとき、時計の針は<13分>を指していた。

 前後半の90分を終え、15分ハーフの延長戦もすでに後半13分。残りは2分だけ、という局面だった。

 イラン陣内で呂比須ワグナーが相手選手を後ろからチェック。奪ったボールを中田が横取りするようにかっさらい、その場でくるりと反転。右足から左足にボールを持ち換えながらドリブルを仕掛けたのだ。

 そしてシュート。中田の左足から放たれたボールが、イラン選手の足に当たってわずかに方向を変え、ゴールマウスへ向かっていく。

 GKアベドザデーが左手を伸ばしながら横っ飛び。辛うじてボールを弾き返した。

 そこに岡野雅行。もうさえぎるものは何もなかった。

 岡野がスライディングしながら押し込んだボールがゴールネットを揺らすよりも早く、岡田武史監督が、カズが、サブの選手が、スタッフも含めた全員が、両手を突き上げながらベンチから飛び出していった。

 1997年11月16日、日本サッカー、史上初めてのワールドカップ出場決定。

 その瞬間、灼熱のマレーシアと遠く離れた日本で、無数の歓喜の拳が突き上げられた。

あの日のジョホールバル

 ジョホールバルは国境の町である。海峡の向こうはシンガポール。約1キロの橋で両国はつながれている。

 キックオフは夜9時3分(現地時間)だったから、昼間に僕は一人でその国境の橋「コーズウェイ」を歩いて渡ってみた。

 大一番の前に2ヶ月半続いた天国と地獄の日々を静かに振り返っておきたかった。

 橋は渋滞していて、歩いている僕の方が速いくらいに車が連なっていた。シンガポール側に辿り着いて一旦入国。すぐに出国手続きに向かうと、パスポートコントロールに並んでいる人がほとんど青かった。

 再びコーズウェイを今度はマレーシアへ歩きながら、何となく見上げたノロノロ運転の観光バスの車内もやっぱり青かった。

 そして橋を渡り終えると、ジョホールバルの町はもう真っ青。

「こんなに日本人が大挙してやってきたのは戦争以来だ」と地元の老人が苦笑していたが、ショッピングセンターもケンタッキーも青いレプリカを着たサポーターで埋め尽くされていた。

 試合開始4時間前、入場待ちのサポーターでラーキンスタジアムはぐるぐる巻きになっていた。あの日は昼と午後に2度の激しいスコールがあった。弾丸ツアーでやってきたサポーターたちは激しい雨に濡れながらキックオフを待っていた。

 スタジアムではなぜか「中島みゆき」がスピーカーから流れていた。日本人向けのサービスだったのだろうが、選曲が「一人上手」で苦笑した。こういうときは「ファイト」だろう、と思った。

 スタジアムの周囲ではTシャツが売られていた。真っ赤な日の丸に「頑張って」と怪しい日本語の、もちろんバッタモノ。

 値段は40リンギット。約1600円だから現地の物価からするとかなり割高。しかも一度洗濯したら首回りが伸びてしまいそうな作りだったが、思わず買ってしまった(日付が入っていたので、つい)。

 キックオフ2時間前の午後7時ジャスト、ゴール裏から太鼓の音が響いてサポーターが歌い始めた。“BLUE HEAVEN”のスタンドを「ドラえもん」がふわふわと飛び交っている。そんな光景を眺めながら胸が熱くなった。

 気がつくと、あたりには同じように顔を紅潮させている記者やカメラマンが何人もいた。

 到着した選手たちもロッカーから出てきて、スタンドを見上げていた。青一色のスタンドを見て、山口素弘が「日本じゃん」と呟き、秋田豊が「ひぇーっ」と驚きの声をあげた。

 報道陣から「日本だよ、日本」、「ホーム、ホーム」と選手を勇気づける声が飛んだ。

 そして――日付が変わろうとする頃、青い歓喜がジョホールバルで弾けた。

23年前、40RMで買ったTシャツ(著者所有)
23年前、40RMで買ったTシャツ(著者所有)

悲劇からの4年と、2ヶ月のジェットコースター

「ジョホールバルの歓喜」の視聴率は47・9%だった。

 その4年前、「ドーハの悲劇」が48・1%だから、目前で出場権を逃した悲劇も、土壇場で出場権をつかんだ歓喜も(どちらも真夜中の放送にもかかわらず)国民の半分がテレビで見ていたことになる。(ドーハの悲劇についてはこちら

 つまり「4年前、悔しい思い」をした人たちが「4年後に歓喜の拳」を突き上げたのである。

 その意味で、これは「4年に及ぶ国民共有のドラマ」であり、この夜のVゴールはそんなロングドラマの最高のエンディングでもあった。

 しかも、その4年間のドラマは退屈する暇がなかった。ファルカン監督の就任と解任にはじまり、「腐ったミカン」事件、カズのイタリア移籍や中田の台頭など、ピッチ内外で話題に事欠かなかった。

 ドーハから始まったドラマは観客を魅了させるに十分な起承転結を展開しながら進んでいったのだ。(その間のあれこれはコチラに)

 そして、最終予選そのものもドラマチックだった。

 9月の国立競技場から始まり、11月のジョホールバルまでゲームが終わるたびに、天国と地獄が入れ替わった。

 初戦でカズのPKを皮切りに6ゴールを奪ったときには楽観視された戦いが暗転するのは3戦目、韓国に逆転負けを喫してからだ。

 山口のループシュートで先制しながらラスト10分で2失点したこの敗戦の後、カザフスタン、ウズベキスタンと連続ドロー。加茂周監督が電撃解任され、岡田コーチが昇格する。

 しかし、続くUAE戦でも終盤追いつかれ、またしてもドロー。この時点で日本のワールドカップ出場は風前の灯だった。

 そして試合後にはあの“暴動”が起きる。

 投げ込まれるパイプ椅子の金属音と、そんなサポーターに向かっていこうとするカズを羽交い絞めで引き留める関係者。国立競技場はパトカーの赤色ランプとサイレンが鳴り響く修羅場と化していた。

 その後の連勝(とUAEの失速)でグループ2位となり、第3代表決定戦へ望みをつないだが、ジョホールバルへの道のりは容易なものではなかったのだ。

 ジェットコースターのように感情を揺さぶられ続けた2ヶ月間だった。

6万キロのロードムービー

 しかもこの最終予選は、広大なアジアで、ホーム&アウェイの試合を毎週末行うという尋常ではない方式で行われた。

 試合順に記せば、東京、アブダビ(UAE)、東京、アルマトイ(カザフスタン)、タシケント(ウズベキスタン)、東京、ソウル、東京、そしてジョホールバル。

 つまり、国立でのゲームを終えると、そのまま成田へ向かい、中東や中央アジアに飛んで試合。終わるとまた機上の人となり、東京に戻って試合。それが終わればまた……。

 そんな行ったり来たりが2ヶ月間続いたのである。

 その移動距離は最終予選だけで6万8200キロ(1次予選も含めれば地球を2周したことになるそうだ)。

 当然、それぞれの土地では気候も文化もまったく違う。中東では空港を出た途端、40度を超える熱気に包まれ、ソウルでは極寒に震えた。

 アルマトイでは僕も(めったにないことだが)食あたりを起こしたし、タシケントでは井原正巳が「(スタジアムの)トイレが汚すぎて用を足せない」と嘆いていた。

 あの予選は激変する環境との戦いでもあったのだ。

 特に(ソ連から独立直後の)中央アジア2ヶ国に関しては、ほとんど情報がなかった(「地球の歩き方」のロシア編に2ページだけしか載ってなかったと思う)。

 寒いのか暑いのか、現地での移動や食事などはどうなのか。そんなことさえよくわからなかった。

 ちなみに、知人のカメラマンはダウンジャケット持参だったが、実際にはTシャツで過ごせる日が多かった。食事は韓国料理屋で摂れたが、夜道は街灯がなく真っ暗で危険だった。歩道に突然、巨大な(それも深さ2メートルはありそうな)穴が陥没していたりするからだ。

 僕はカザフスタンからの出国は農薬でも撒きそうな小型機で国境を越えたし、辿り着いたウズベキスタンでの両替相手はタクシーの運転手だった。

 もちろんスマホはまだない。インターネットはすでに存在していたが、ダイヤルアップによる接続で、そのアクセスポイントが生きているのかどうかは(電話を)かけてみなければわからなかった。

 ネット以前に、国際電話は突然切れるし、FAXは届かない。それどころかホテルが全館停電になることもあった。

 そんな綱渡りを繰り返しながらの最終予選はロードムービーのようでもあった。

歓喜の拳が突き上げられた

 その果てによれよれになりながら辿り着いたのが第3代表決定戦で、その最後の最後、延長戦で迎えたエンディングが、岡野のVゴールだったのだ。

 だから――。

 ゲーム展開を記した取材ノートは<13分>で終わっている。その瞬間、僕も両手を突き上げていたからだ。

 そもそも延長戦に入ってからのノートはすでにかなり雑。それでも<岡野→GKキャッチ>、<岡野→GK正面>、<岡野→GK1対1、打たずにパス……>あたりはまだマシな方だ。

 ついには殴り書きの文字でこう記されていて自分でも失笑してしまった。

<岡野、負けるな>

 でもあのときは本当にそんな気分だったのだ。

 岡野は、あれが初めての出場だった。

 2ヶ月半に及ぶ最終予選の間、ずっと日本代表に帯同。しかし、ただの一度もピッチに送り込まれることはなかった。

「(試合に)出さないと決めてるのなら帰らせてほしい」。

 そう漏らしたことさえあった。

 それが突然、あの場面で起用された。国民的注目の下、天国と地獄の狭間で押し潰されそうになっていた。

 延長に入る直前、出場を告げられた岡野がピッチを全力疾走していたのを覚えている人もいるかもしれない。

 だが、あのとき彼は「やってやるぜ!」と燃えていたわけではない。「もう怖くて怖くて。落ち着こうと思って」走っていたのだ。

 でもダメだった。そして絶好機を逃し続けた。

 頭の中にあったのは「もう日本には帰れないかもしれない……」。

 岡野だけではない。すべての選手と監督が、へとへとでぎりぎりだった。

 ドーハからの4年間、最終予選の2ヶ月半。そして最後の最後のジョホールバル。

<岡野、負けるな>は<日本、負けるな>でもあった。その<日本>には自分自身も含んでいた気さえする。

 たぶん、みんなそうだったはずだ。

 だから――あの真夜中、日本中で歓喜の拳が無数に突き上げられたのだ。

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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